日本の食支える 「3%」

 何を確かめるために地方を訪ね歩いているのだろうか。 時折、自問自答してみる。 過疎の現実か、押し寄せる高齢化の波か、あるいは、日本の食を支える人々を失っていく焦りか。 それとも、どこかにあるはずの 「希望」 を探す旅なのか。

 民俗研究家でフリーライターの結城登美雄さん( 63 )はこの十数年、週のほぼ半分を各地の農村や漁村で過ごしてき た。 田植えの季節になればあぜ道にたたずみ、サケが遡上するころになれば川べりをうろつき、北風が強くなれば、イカ釣り漁の浜にたどり着く。 かつて日本にあった当たり前の風景にカメラを向け、そこに暮らす人々に話を聞く。

消費者ばかり

 「当然のことですが、大都会で人口が多いからといって、住民が偉いわけではない。 世間からは過疎地とか限界集落とかひとくくりにされている山里や海辺には、寡黙だけれども、穏やかで品格のある人々がたくさん住んでいる。 彼らの言葉に耳を傾ければ傾けるほど、この国の未来を憂えざるをえなくなる」
 20年後、つまり2030年の近未来をさまざまな立場の方に問いかけていくのが趣旨である。 ただ、今回に登場する人々の多くは地方で農業などを営むお年寄りたちであり、そのとき、この世にいないかもしれない。 あえてその現実に触 れたのは、彼らの生命がわが国全体の運命を左右するかもしれないからである。
 「考えてみてください。 今や国民の3%に満たない人がわが国の食料の大半を支えている。 かつて自給自足が当たり前だった日本人は消費者ばかりの国になってしまったわけです。 種をまく人、船を出す人がいなくなれば、食べ物はスーパーまで届かない。 そんな当たり前のことを多くの国民が忘れている」
 農林水産統計によれば、わが国の農業就業人口は毎年十数万人ずつ減り続けており平成20年で298万人。 このうち約半数の140万人を70歳以上の高齢者が占め、20年後を担う39歳以下は25万人しかいない。 漁業人口も、漁に出る17万人の男性の5割が60歳以上という。
 むろん、食料は海外から輸入すればいいという考えもあるだろう。 ただ現状ですら40%を切る食料自給率がこれ以上下がることは決して好ましいことではない。 なによりも 「安全・安心」 を当然のように考え、 「輸入モノ」 への抵抗感が根強い日本人がそうした現状を簡単に受け入れられるだろうか。

消えゆく集落

 20年後の地方をめぐっては極端な少子高齢化も予想されている。 国立社会保障・人口問題研究所によると、2030年に65歳以上の高齢者の割合が4割を超える自治体は山間部などを中心に全体の37%。 5割を超え、自治や冠婚葬祭など共同体の維持に困難が出る 「限界自治体」 は5.8%にのぼる。 国土交通省によれば、10年以内に消滅する集落は423、将来的には2,643の集落がなくなる可能性があるという。
 「僕が育った山形県西部の集落はすでに廃村になりました。 豪雪地帯で、決して住みやすくはなかったけれど、かけがえのないふるさとだった。 あのムラが消えたとき、都会で生きていくことがとてつもなく不安になった。 大切なお守りを失ったような思いだった」
 50歳を前に仙台市内でのサラリーマン生活をやめ、現在の仕事を続けるようになった結城さん。 ただ、旅の途中で感じるのは決して地方へのノスタルジーではなく、むしろ都市の未来に対する危機感だという。
 「2030年を待つまでもなく、国民は今、食品に対する不信感と食料供給への漠然とした不安を抱えている。 地方の問題は都市生活者に直結しているのです。 食の担い手をなくし、ふるさとというお守りを失っても私たちは幸福に生きていくことができるでしょうか。 果たして20年後、都市はもつのでしょうか」

「巨大空母」 農村変えた

 東京・永田町の国会議事堂。 4月8日、結城さんは参議院の 「少子高齢化・共生社会に関する調査会」 に 「農の専門家」 として参考人招致され、過疎と高齢化が進む農村の現状を切々と訴えた。 「日本の食料の大半を腰の曲がった地方のお年寄りたちが支えていることを考えてほしい」 「安心、安全な食品がこの先ずっと食卓に並んでいる保証はどこにもない」 ……。  出席した22人の議員の中には、居眠りする者や退席を繰り返す者もいたが、結城さんは 「ちょうど今は中古農機具フェアが始まる時期です」 と話題を変え、ある農民が詠んだこんな俳句を読み上げた。
《 田植え機を買ふ決心をして、淋し 》
 田植え機が壊れたのを機に、米作りをやめてしまおうか。 迷いに迷ったものの、踏ん切りがつかない。 米価の下落は止まらず、働けば働くほど赤字になる。 それでも、耕地を荒らしておくのは世間やご先祖さまに申し訳ない。 とはいえ、自分はあと何年働けるのか……。 田植えの季節を前に、そんな葛藤を抱えながら水田に立つ人々がいることを知ってほしかったが、議員らの反応は鈍いままだった。
 委員会終了後、結城さんは 「農政と現場との距離が遠すぎる」 と落胆し、こう続けた。 「消費者である大多数の国民も同じでしょう。 食の向こう側にいる人々のことなど、まず考えない。 なぜならスーパーに行けばいくらでも新鮮な食べ物があり、安心して大量消費できるからです。 大型スーパーという巨大な食品庫が各地に誕生する以前と以後で、わが国は大きく変わってしまったように思うのです」

田園の真ん中に

 スーパー以前と以後。 それは、駅前や商店街に開店した1970年代というよりも、大店法の見直しで地方の郊外などにも急速に広がった90年代以降が一つの境目といえる。 経済産業省によれば、1,000平方び以上の大規模小売店の数は平成19( 2007 )年で全国に約1万7,000店。 約20年前の昭和63( 1988 )年の約8,000店から2倍以上増えている。
 例えば 「ジャスコ」 などを運営するイオングループの総合スーパーやスーパーマーケットの数は平成2年の613店から現在は2,032店に増加。 同社では、マイカー依存度が高い地方の特徴や地価の安さに早くから目を付け、 「タヌキかキツネのでるところに出店しろ」 が合言葉だったという。
 背景には、雇用や税収の確保のため自治体側も積極的に歓迎したという経緯があるが、一方で旧来の商店街は軒並みシャッター通りと化した。 田んぼの真ん中に巨大空母のようなスーパーだけがたたずむ典型的な田舎町が次々と出現した。
 東京から車で約2時間。 南アルプスや八ヶ岳などの山々に囲まれた山梨県韮崎市もそうした地方都市の一つだ。 4月下旬、周辺市を含め人口8万人ほどの商圏で4ヶ所目となる大型ショッピングモールがオープンした。 約1万8,000平方メートルの広大な店舗面積に大型スーパーや家電量販店、百円ショップなどが入居し、駐車場には、農作業の手を休めて買い物に来る人たちの軽トラックが列をつくる。
 隣接する北杜市の山間部、増富地区に住む農業で市議の小林忠雄さん( 69 )は 「昔なら盆や正月にしか食えなかったものが、いつでも買えるようになった」 と語りながらも、過疎の現状をこう訴えた。
 「高齢化が進み、この辺りの田んぼの6割以上は耕す人のいない耕作放棄地です。 そこがサルやシカの絶好のすみかになり、うちの作物も軒並み食べられている。 スーパーには新鮮な食物がたくさんあるのに、なぜか自分の足元では、農業そのものが危うくなっている」

似通う地方都市

 5年前の町村合併で誕生した北杜市。 人口規模は増えたものの、増富など一部地区の高齢者比率は60%を超え、 「限界集落化」 は確実に進んでいる。 夫婦だけの世帯や独居世帯も広がり、手軽に食べられるスーパーの総菜は、こうした地域にもなくてはならないものになった。 夫と農業を営む70代の主婦は 「息子たちが東京に出てしまい、食べるものは何でもよくなった」 と話し、こう続けた。
 「以前なら家の野菜で作った煮物や汁物がおかずだった。 最近は料理をする気力も体力もない。 スーパーの総菜や弁当をパックのまま主人と2人で食べている。 家の野菜は余るだけ。 今年は春の種まきも減らしたところです」
 大型農道に大型スーパー、大型パチンコ店に大型薬局。 北杜市や韮崎市だけでなく今、わが国の地方都市はどこへ行っても同じ表情を見せる。 その足元で何が起きているのか。 食と農村の研究を続ける熊本大学文学部の徳野貞雄教授( 59 )=地域社会学=は 「日本人一人一人に考えてほしい問題だ」 としてこう呼びかける。
 「田中さん、山田さん、小川さん、中畑さん、河野さん、沢田さん、中村さん、植木さん、林さん、森さん…。 トヨタやホンダや松下もそう。 ほとんどの日本人の名前は農山村に由来している。 今は都会できれいな顔で暮らしていても、みんな農民だったんです。 なぜ、自身の問題としてとらえられないのか。 地方をないがしろにした都会の生活は、近い将来、必ずしっぺ返しを食うと思います」
 2030年、私たちのふるさとはどのような形で存在しているのか。 そこにあかりはあるのか。 地方から日本の未来を考える。


「消費者ニーズ」 の呪縛
  産地偽装 揺れたカキ養殖

スーパーの圧力

 太平洋に突き出た宮城県・牡鹿半島の小網倉浜。 4年前の市町合併で現在は石巻市になる。 沖合にはカキ養殖の 「浮き樽」 が等間隔に並び、漁港の共同カキむき場では、阿部聖昭さん( 66 )一家ら数十人がゴム長靴に前かけ姿で黙々と生ガキの殼をむいていた。 午前7時から正午まで、1人がむくカキは平均約1500個。 高齢者にとっては腰にくる作業でもある。
 宮城県の三陸沖は広島に次ぐ養殖ガキの産地だが、平成14( 2002 )年、大がかりな産地偽装に揺れた。 後に各地で噴出する食品偽装の 「原点」 ともいえる事件だった。
 県内のカキの年間生産量は5000トン。 にもかかわらず当時、それを上回る 「宮城産」 が流通した。 仲買業者が漁協から買い入れてスーパーヘ卸す際、韓国産を交ぜて販売していたのだ。 県の調査によると、仲買55業者のうち少なくとも18業者が偽装に手を染めていたという。
 阿部さん一家にとって、この年は三男の豊さん( 30 )が家業を継ぐため仙台市内から帰郷した年だった。 豊さんは、ケンコと呼ばれる細いナイフで手際よくカキをむきながら、 「当時はカキが足りない、足りないと仲買業者から言われ、朝から晩まで一日中むいていた。 まさか韓国産と一緒にされてたなんて、本当にショックだった」 。
 偽装を告発した地元漁協の当時の組合長、木村稔さん( 68 )によれば、仲買業者もまた、スーパーから生産量を超えるカキの安定出荷を求められ、韓国産欲しさに山口県の下関港まで足を運んでいたという。
  「要するにスーパーの圧力に負けたんだな。 彼らの言葉で言えば 『 消費者ニーズ 』 というやつだ。 海には時化もあるし、ましてやカキむきは機械じゃできない手作業だ。 それでも彼らは大量購入で単価を下げ、何が何でも毎日店頭に1トンのカキをそろえろと迫る。 『 お客さまのニーズにお応えできない 』 と言ってくる」

「安さ」 が基準

 「消費者ニーズ」 。 その言葉が独り歩きし、地方の生産現場を呪縛のように覆っている。 カキだけではない。 そもそも、スーパーの店頭に同じ大きさ、同じ色の野菜や果物が季節を問わず、しかも格安の値段で並んでいることを 「消費者」 の側も何の疑問もなく受け入れてはいないだろうか。
 農産物流通コンサルタントの山本謙治さん( 38 )は 「モノの値段は本来、生産価格に流通価格などを上乗せして決まっていくものなのに、バブル崩壊後は小売り側に権限が移るようになった。 デフレ不況で物価が下がり、消費者も 『 なぜ100円で買えないの 』 となってしまう。 魚介類や農産物でさえも同じように思ってしまう」 。
 では、 「消費者ニーズ」 の実態とは何か。 熊本大学の徳野貞雄教授と財団法人福岡アジア都市研究所が市民1000人に消費者のタイプをアンケートしたところ、 「安全なものなら多少高くても買う」 という 「積極型消費者」 はわずか5%。 「おいしければ満足」 という 「無関心型」 は23%で、最も多い52%を占めたのが 「安全性には注意しているが、特別なことはしていない」 という 「分裂型」 だった。
 山本さんは 「口ではきれいごとを言いながら、実際は安いモノしか買わない。 結果的に、POS( 販売時点情報管理 )データを重視するスーパーにとって、安値が最大の 『 消費者ニーズ 』 となる」 。
 生ガキ偽装事件の際に発足した対策協議会の席上では、学識経験者の委員が、同じく委員に選ばれた大手スーパーの社長に、カキの養殖が気象に左右されやすいことなどを説明した上で、こう迫ったという。 「足りなければ、なぜ店頭に品切れの看板を出せないのか。 あなた方は戦後、野菜がいつでもどこでも買えることの異常さを日常にしてしまった。 そのしわよせを海にも押しつけるのか」
 社長は 「知りませんでした」 と答えたが、その後、会合へは姿を見せなくなったという。

変わる海の景色

 三陸沖のカキ生産者の多くが家族労働だ。 父親や息子が養殖ガキを漁船で水揚げし、港まで運んだ後、フォークリフトでカキむき場へ運び、今度はそれを女性を含めた全員でむく。 阿部さん一家も、本村さん一家もそうやって生計を立ててきたが、宮城県内のカキ生産者は平成18年で約1200軒。 20年前に比べて約800軒減った。
 この仕事が自身で3代目になる木村さんは 「設備投資が大きいから新規参入はほとんどない。 しかも今はとても採算が合わない。 息子は継いでくれたけど、その先はわからんな」 と話し2030年のふるさとについて、こう述べた。
  「海の景色はだいぶ変わってるだろうな。 養殖をする人が減ってるだろうから。 でも俺らより、都会の人の心配をしたほうがいい。 今のままなら必ず食糧不足が来るよ。 生産者がいなくなってるんだから。 安心、安全の消費者ニーズなんてものは、食の安定があって初めて言えることだと思うよ」
 カキ偽装の発覚から7年。 よく似た構図はその後も各地で繰り返され、今年1月には、秋田県の水産物卸会社が、ロシア産のシジミを青森産と偽って販売していたことが発覚した。 この会社ではロシア産の安い価格のまま販売しており、 「国産が手に入らず仕方なくやった。 儲けのためではなかった」 と釈明した。


農家崩れたっていいさ
  ご飯1杯の値段

 ぽっかりと青空へ開いた空洞は、崩れゆく日本の農業の象徴なのか。 昨年6月の岩手・宮城内陸地震の被災地に近い宮城県栗原市の国道沿い。 水を張り始めた田んぼの中に、見上げるような大看板の鉄枠だけが立っていた。 時の流れでベニヤ板が朽ち果て、そのまま放置されているのだ。
 東北の米どころで今、同じような廃看板が目につく。 栗原市内の看板は昭和50年代前半、地元農協青年部栗駒支部の若い農民たちが立てたものだ。 当時のリーダー、小野寺博さん( 75 )は 「もともとは米価闘争のスローガンを書くために作った。 政府の尻をたたいて米価を上げてもらう。 そのために農政批判もしたしコメのPRもしたが、今は書き手もいない。 農民の側に闘う気力もなくなった」 。
 看板に書かれた文句は度々変わったという。 平成5( 1993 )年、冷害による凶作でタイ米を緊急輸入した際は 「タイ米よりも日本米」 と書いた。 「タイ米」 と 「対米追従」 をかけた風刺だった。 9年にベニヤ板を新調したが、結果的にそれが最後となった。 片側の面には 「21世紀も栗駒米でおいしい笑顔」 。 もう片方には震えるような文字でこう刻まれていた。
《 農家崩れたっていいさ国家共々 》
 この言葉を書いたのが当時、青年部支部で事務局を務めた菅原清一さん( 46 )だ。 その2年前に食糧管理法が廃止され、 「農家は見捨てられると思った。 国への捨てぜりふのような気持ちで、仲間と話し合って決めた」 と明かし、看板に対する思いをこう語った。 「あれから12年たつけど、事態はあの通りに進んでるんじゃねえの。 農家は崩れてきてぃるし、国家はまだ倒れてないけど、倒れる寸前じゃねえか」

ライスなら250円

 菅原さんは典型的な兼業農家だ。 約2ヘクタールの水田を耕作しており、平日は勤めに出て、週末は72歳の父とともに赤いトラクターにまたがる。 「一番の問題は米価が安すぎることだ。 昔みたいにコメだけ作って食っていけるならいいが、今の米価なら機械を買うだけで赤字になる。 メンテナンス代もかかる。 それでも毎年、何も言わずにコメを作ってるオレらは、時々バカじゃねーのとすら思うよ」
 生産者米価は20年前の1俵( 60キロ )1万8000円から年々下落し、現在は約1万2000円。 この値段でさえ、農家は国から手厚く保護されていると批判を受ける。 減反で米価が調整され、外国米の輸入にも高い関税がかけられているからだ。
 ただ、茶碗1杯分のご飯の値段を多くの消費者は意識していないのではないか。 1俵からとれるコメは約1000杯分。 つまり12円である。 コンビニで 「おにぎり」 になれば105円、ファミレスで 「ライス」 になれば250円に跳ね上がるが、その原価はペットボトルのお茶1本、カップラーメン1個の1割にも満たない。
 国では、2年前から4ヘクタール以上の耕地を持つ大規模農家や、20ヘクタール以上の耕地をまとめた集落営農にしか補助金を出さなくなった。 その先には経済界からも要請が強い農業の 「株式会社化」 もある。 ただ、そうした動きはあくまで一握りの巨大農場を念頭に置いたものであり、日本の米作農家の8割を占める菅原さんのような兼業農家や小規模農家の立場は置き去りにされている。
 菅原さんは 「もはや国には頼れない」 と話し、こう訴えた。 「申し訳ねえけど消費者にもう少し支えてもらえねえかなと思う。 もう少しあれば、無農薬でおいしいお米を供給できる。 私たちも農業を続けられる」

鳴子での試み

 「もう少し」 。 その思いを形にしたのが、3年前に宮城県大崎市の鳴子地区で始まった 「鳴子の米プロジェクト」 だ。 地区の小規模農家のコメを消費者がまとめて買い取る仕組みで、1俵の値段は2万4000円。 このうち1万8000円が農家へ渡り、残りの6000円が若者の農業支援などに充てられる。 昨年の購入者890人のうち6割が都会の消費者で、今年もすでに100件以上の予約があるという。
 市観光建設課の安部祐輝さん( 40 )は 「茶碗1杯は24円。 多少割高になるが、農の現状が都会の人にも少しずつ理解されてきた結果だと思う。 何より地元の農家が 『 食べる人のために頑張ろう 』 と元気になったことが一番うれしい」 。
 ただ、こうした例はまだ少ない。 過疎化や高齢化で進んだ耕作放棄地は、すでに全国の農地の1割にあたる38万ヘクタール。 これは埼玉県の面積に相当する。 一方で農地全体に占める水田の割合は54%。 特に東北では71%を占めており、日本の農家にとって、いかに米作りが大切なものだったのかがわかる。
 かつてわが国で当たり前に見られた水田の風景は2030年、どう変わっていくのが。 菅原さんは地元の耕作放棄地が大量のカヤに覆われ始ぬたことをあげ、こう訴えた。
 「カヤは根が深く、枯れて絡みついた耕地の復旧にはものすごい労力がかかる。 いずれこの一帯は茶色の荒野に変わってしまうかもしれない。 消費者にとっては1杯12円の投資だけど、そのお金がこの国の風景も守っていることをわかってほしい」
 《 農家崩れたっていいさ… 》。 その後に続く言葉は今、誰に向けられているのか。


耕す人再び出ると信じて
  棚田に咲く未来の桜

 誰を責めても仕方がなかった。 あえて言うならムラの人々の“老い”がもう少し緩やかに進んでほしかった。 「ギブアップ」 はわずか5年で訪れた。
 山形県のほぼ中央に位置する山辺町大蕨地区。 農林水産省の 「日本の棚田百選」 にも選ばれたこの地で17代にわたって米作りを続ける斎藤盛雄さん( 73 )は平成12年、町おこしの一環として 「棚田オーナー制度」 を立ち上げた。
 地域の高齢化や減反で、美しい棚田の景観にも荒れ地が目立ち始めた。 水は上から下へ流れるため、そうした場所があるとほかの田んぼにも影響が出てしまう。 ならばオーナーを募って休耕田を貸し出せばいいのではないか。 年会費は3万円。 東京や横浜などの都会の人たちに米作りを体験してもらい、収穫したコメを分配する。 当初は10アールの田んぼに十数組の申し込みがあったという。
 「集落の人もみなボランティアで協力してくれた。 集客を見込んで400万円もかけて棚田観音なんてものまで建てた。 それでも失敗した。 米作りも棚田の保全も大事だけど、それを守る力は、もう自分たちにはなかったということだ」
 原因はオーナー側にもあった。 田植え、稲刈り、収穫祭と年3回の 「出席義務」 すら果たさない。 現場に来ても、地元の人に作業を任せて山菜採りに出かけてしまう。 逆に地元側もオーナーを 「お客さん」 として扱い過ぎたという。
 斎藤さんは 「草取りなどの地味な作業の大半は地元の年寄りでやり、不作の年はオーナーに内緒で別の田のコメを足して配ったこともあった」 と明かし、さらにこう続けた。
 「われわれも舞い上がりすぎたんでしょうな。 四六時中オーナーの田を気にかけ、彼らが来ればモチをついたり、郷土料理を振る舞ったり…。 みんな疲れ果ててしまった」

農民の記念碑

 大蕨地区の人口は83世帯294人。 昭和30年代に比べ3分の1に減った。 65歳以上の比率は35.4%だが、農家の大半は高齢者だ。 集落にある棚田は東京ドームのほぼ4個分にあたる16.4ヘクタール。 このうちオーナー制度が終了した平成16年以降、約1ヘクタールが休耕田になった。 その多くは高齢者が作業しにくい上段部や傾斜のきつい土地だという。
 そもそもなぜ、そうした不便な場所に棚田は生まれたのか。 学者や農業関係者らでつくる 「棚田学会」 によれば、その多くは600年以上前の室町時代以降に造られたとされるが、わが国の水田面積に占める割合は1割にも満たず、決して米作りに適した土地ではない。 むしろ収穫高は平地の半分以下ということもあるという。
 それでも山間部の農民たちが開田に力を注いだのは、傾斜地ではヒエやアワしか栽培できず、コメを作るための選択肢がほかになかったからだ。 スキやクワしかない時代に大量の土を起こして段差を築く労力は、平地とは比べものにならない。 斜面の土は雑草も生えやすく、上層と深層の土を混ぜ合わせる作業も必要だった。 最上部には用水路やため池造りも欠かせず、世代をまたいで数十年以上かけて開かれた棚田も珍しくないという。
 棚田学会会長の中島峰広・早稲田大学名誉教授( 75 )は
 「そうまでしても農民はお米を作りたかった。 お米を食べたかったんです。 景観が美しいとか、懐かしい光景というだけじゃない。 棚田はわが国の農民労働の記念碑なんです」

世代交代に失敗

 棚田オーナー制度は、熊本や高知、奈良など各地の自治体でも導入され、中には10年以上続く成功例も少なくない。 そうした地域では、オーナー会をつくらせたり、オーナーを運営面に参加させたりするなど、何らかの責任を分担しているケースが多いという。
 大蕨地区を何度も訪れている中島教授は 「地域全体での取り組みが弱いようにも思った」 と話し、オーナー制度のあり方についてこう指摘した。 「地域の善意やボランティアに頼るだけでは長続きせず、オーナー制度自体を事業化することも必要かもしれない。 『 おもてなし 』 だけで、農村が抱えるすべての問題が解決するとは、地元の人たちだって本当は思っていなかったはずです」
 役場の関係者によれば、オ十ナー制度の頓挫には、若い世代へのバトンタッチがうまくいかなかった背景もあるという。 制度を始めた斎藤さんにも農業の後継ぎはおらず、
 「オレの代で百姓は終わりかもな」 と話す。
 地元では今、棚田を見渡せる高台に桜を植え始めた。 その数はすでに100本を超える。 せめて桜が目当てでもいいから大勢の人がこの集落を訪れ、どこまでも続く棚田の光景に気づいてくれたら…。 まだ1メートルほどしかない若木には、そんな願いが込められているという。
 斎藤さんに 「20年後の棚田」 をあらためて問うと、しばらく考えてからこう答えた。
 「もしこの集落が消えてなくなっても棚田の形は残る。 桜も20年どころか50年でも100年でも花を咲かせる。 その間にみんながもう一度、食いもんのありがたみを感じてくれれば、米作りの大切さに目覚めてくれれば、きっと棚田を耕す人が再び出てくる。 あせらずその日を信じたい」 。


若き町議が目指す未来
  高齢者が7割になる町

 めでたい日にもかかわらず、複雑な思いだった。 埼玉との県境に位置する群馬県南西部の神流かんな町。 2月の町議選で初当選した天野賢さん( 36 )は4月7日、地元の町立万場小学校の入学式に出席した。 入口約2600人のこの町で唯一の小学校だが、新入生はわずか8人。 全校児童合わせても44入しかいない。 真新しいブレザー姿の列の中には長男、翔君( 6 )の姿もあった。 「何も手を打たねば、この町はいずれ消滅してしまう。 息子たちの代に、何とかこのふるさとを残してあげたい。 町議を目指した理由もその一点に尽きます」
 危機意識の背景には、予想以上の速さで進む少子高齢化があった。 町では65歳以上のお年寄りがすでに50%を超えており、国立社会保障・人口問題研究所の予測によると、約20年後の2030年、その比率は全国1位の70%に迫る。 逆に15歳未満の子供は2.9%、つまり30人に1人にも満たない。 これも全国1位だ。
 25歳の時、群馬県内の会社勤めからUターンし、家業の刃物職人を継いだという天野さん。 町議選では 「地盤」 も 「世襲」 もなく、最年少でトップ当選したが、 「若い人の力で町を再生してほしいという期待を感じた」 としながらも、町民の危機意識については疑問符をつけた。
 「高齢化といっても今のお年寄りは元気だし、将来の問題がまだ目に見える形で表れにくい。 だからどうしても現実の課題として考えられない。 老いの問題は数値だけではとらえられないんです」

「限界自治体」

 65歳以上が50%を超え、共同体の活動が難しくなった集落を 「限界集落」 と呼ぶ。 神流町の場合、人口比だけなら、すでに 「限界自治体」 である。 2030年には同様の自治体が144ヵ所に増えると予測される一方で、 「イメージが悪い」 などの理由で、そうした名称を国や役場が使わないケースもある。
 宮崎県の東国原英夫知事は 「いきいき集落」 の呼び名を提唱しているが、限界集落の命名者でもある長野大学の大野晃教授( 69 )はこうした風潮を厳しく批判する。 「例えばある知事は、限界の条件を75歳以上に引き上げてほしいと言ってきた。 数を減らしたいだけなのでしょう。 私は20年前からこの呼び名を使ってきたが、自治体側は問題を先送りするだけで現実を直視してこなかった」
 6年前に旧万場町、旧中里村の合併で誕生した神流町。 戦前は宿場町として栄え、戦後も2軒の映画館が残っていた。 昭和40年代も現在の約2.5倍の7000人近くが両町村に住んでいたという。
 地元の人たちは関越自動車道が開通した55( 1980 )年ごろが節目だったと振り返る。 交通網の整備により、逆に山間部の人口が吸い取られるという 「ストロー現象」 である。 東京都心部への入り口となる藤岡ジャンクションは車で約1時間、逆方向の高崎方面も同じく約1時間。 鉄道のなかった町にとって、この距離感は新鮮だった。
 旧中里村長を3期務めた小林一夫さん( 68 )は 「地場産業のコンニャク作りでは食えなくなったのもそのころだ。 若い農家の多くが村を出た」 と話し、こう続けた。 「残った者も子供に農業を継がせられないとなったら教育に力を入れる。 下宿させて高崎市内の高校に行かせたり、一家で引っ越す者も増えた。 その中には本来、流出を食い止める側の役場の職員もたくさんいた。 『 限界 』 は一夜にして生まれたのではなく、いろんな要素が絡み合っているんです」

子育ての知恵袋

 神流町ではその後、 「恐竜王国」 を立ち上げて観光客を誘致したり、1人目の子供から出産祝いを支給したりする制度も作った。 天野さんは、そうした施策に一定の理解を示しながらも、緊急の課題はほかにあるのではないかという。
 「高齢者という存在をどうとらえるか。 長生きしてもらってよかったと考えるのか。 それなら、日常生活をどう支えていくのか。 まずはお年寄りが安心して暮らせなければ町の寿命はさらに短くなってしまう」
 大野教授も 「行政は高齢者が生活するための最低ラインを保障する政策を考えていくべきだ。 例えば、過疎の集落でも歩いて年金を受け取りに行ける、歩いて買い物に行けるという条件をどう確保するか。 集会所などにそうした機能を持たせることは財政難であっても準備できるはずです」 。
 もっとも、少子化については一朝一タに解決するのは難しい。 天野さんは 「いっそ前向きに考えたい」 と言い、こんな提案をした。 「お年寄りって子育ての知恵袋じゃないですか。 だから日本一高齢化が進んだ町は、日本一子育てがしやすい町なのかもしれない。 どうせ日本中が高齢化するなら、それを逆手にとって町おこしを考えたい」
 2030年。 過去例のない少子化と高齢化は、この町だけでなく全国の自治体にも確実にやってくる。 そのマイナス面だけを見ていても、決して未来はない。 天野さんにあらためて 「20年後」 を問うとこんな答えが返ってきた。
 「長男は26歳。 僕がUターンした年とほぼ同じになる。 そのとき、彼がどこにいるのかはわからないけど、ふるさとを守る人間がいなければ、ふるさとへは帰れない。 だから僕はふるさとの管理人のような立場であり続けたい。 そごが町議であり、父である僕の使命だと思っています」


漁業の将来 「ギャンブルだな」
  海の男たち

 闇の中で青白く海が光った。 これが網にかかった太刀魚の大群である。 機械がグオングオンと轟音をあげて網を引っ張り上げると、潮の香りが船全体に広がった。 「結構取れたな」 。 巻き網船団の親方、島野峯雄さん( 63 )はニコリともせずに言った。
 深夜の東京湾。 千葉県富津市の萩生はぎう港から3~4キロの沖合である。 巻き網漁は先頭の探知船がレーダーで魚群を探し、2隻の網船が双方から海に網を落として一度に何万匹という魚をすくい上げ、横付けした運搬船が港まで魚を運び込む。 漁師たちはこの作業を明け方近くまで繰り返す。
 太刀魚はここ数年ほとんど取れなかったが、今年に入って突然大漁になった。 この日の水揚げは約12トン。 セリにかかれば200万円ほどになるが、同じように船を出してもバケツー杯という日もある。
 「大丈夫っすか。 酔ってませんか」 。 モヒカン刈りの若い漁師が声をかけてきた。 インターネットの求人情報を見て1年前に応募してきた石川竜太郎さん( 22 )だ。 「この仕事は一晩で何千万になることもあるし、大赤字もある。 親方もよくバクチみたいなもんだと言ってる。 そこが楽しいんだと思う」
 揺れる網船から運搬船の間をぴょんぴょんと飛び移りながら 「3回海に落ちたことがあります」 と話す石川さん。 彼の言うように、漁業はギャンブル性が強く、ときに危険がともなつ荒々しいイメージもある。 結果がでるまで数ヶ月かかり、草取りなど地味な作業も多い農業との違いはそこにある。
 ここ数年、各地の漁港で石川さんのような若者が増えているというが、島野さんは 「石川みたいに1年も持つのは珍しい。 不況で仕事もないし、格好いいと思って来るんだろうけど、大半は都会の子だ。 数日で辞めることもある。 逆に地元からの応募は全くない。 農村も漁村も、そういう構図は変わらないと思う」 。

みんな陸に…

 房総半島を代表する漁師町の一つ、富津市。 南北約40キロの海岸線に7つの漁港を持つが、現在の漁業者数は昭和55( 1980 )年の半分の約800人。 中でも島野さんが所属する萩生漁港は市内で最も過疎化が進む天羽あまは地区にあり、組合員は30人程度。 平均年齢は70代を超える。
 「みんな陸にあがってしまった」 。 漁協関係者が口をそろえるように、中年層の多くは不安定要素の強い漁を捨てて勤め人になり、今では63歳の島野さんが漁協の中で若手という。 地区全体でも高齢化は進み、次世代を担う15歳未満の子供の数は1割を切っている。
 だからこそ石川さんの存在は貴重である。 海のない埼玉県に生まれ、地元の高校を卒業後、一度は希望した自衛隊では入隊検査で内臓疾患が見つかり、職を転々とした。 漁師に応募したのもアルバイト先の居酒屋で店長に勧められたという軽い気持ちだった。
 島野さんはそんな石川さんに一から漁を教え、飲みに誘い、自宅近くに家も借りてあげた。 賃金は最低21万円を保証し、取れた分を上乗せする。 多い月は60万円前後になることもある。 頭ごなしに怒鳴ったりもせず、時折冗談めかして声をかける。 はたで見ていると気を使っているようにも感じられた。
 島野さんは 「あいつはのみ込みが早かっただけだ」 と言いつつ、こう続けた。 「昔の人は海水がしょっぱいうちは漁師は大丈夫と言ったもんだ。 漁にさえ出れば何とかなる。 魚はどこかにいるんだよ。 でも今はそれを取る人間がいない。 港を守る人間もいない。 だからこそ、少しでも漁を好きになってくれたヤツを中途半端に使い捨てにしちゃならんと思ってる」

回転ずしは流行

 昭和39( 1964 )年のピーク時には110%を超えた水産物の自給率は今や60%程度。 日本人の食生活が肉中心に変わったこととも無関係ではなく、厚生労働省の国民栄養調査にょれば、この20年で魚介類の1人当たりの消費量は2割近く減り、総務省の家計調査でも4割近く消費額を減らしている。 必然的に魚の値段は下がり、漁をする人も減っていく。
 近畿大学の日高健准教授( 水産経済学 )は 「回転ずしは流行っても、家庭で魚をさばける人も煮付けができる人も少なくなった。 一方で海外では魚の奪い合いともいえる現象が起きている。 特に伸び率の高いのがアジアだ。 中国では経済発展が著しい沿岸部を中心に伸びており、それが安い水産物として日本へ輸入されるケースも増えている」 。
 日本の海岸線は約3万3000キロ。 ここに約2900の漁港と約6900の漁師町がある。 平均すれば漁港は11キロに1つ、漁師町は5キロに1つ。 これほどの漁業国でありながら漁師の数は1漁協平均60人に満たない約17万人。 その5割が60歳以上であり、毎年平均8000入が引退している。 計算上だが、2030年、その数は限りなくゼロに近づく。 ごく当たり前の海辺の光景も消えていく。 「20年後に漁師をしているか…。 考えたことないっすね」 。 屈託のない笑顔でそう話す石川さんに、島野さんは無理強いはしないつもりでいる。 ただ、漁業の未来については 「希望もあるし、落胆もあるかもしれないし、漁と同じでギャンブルだな」 と話し、取れたての太刀魚を眺めながら、こうつぶやいた。
 「本物の魚の味を国民が忘れてしまったら、アフリカの深海魚みたいなものばかりでいいのなら、俺たちも、この町もいらない。 食う人たちが決めることだと思うよ」


ガリ版刷りの 「未来図」
  災害で消えた村

 村がなくなる原因は人口減だけではない。 「自然の力」 で消えた集落もある。 関連死を含め68人が犠牲になった平成16( 2004 )年の新潟県中越地震で、震度7の最大被害に見舞われた川口町田麦山地区。 縫製菓を営む森山正夫さん( 71 )は当時、家財道具を積んだ車が自宅前の県道を相次いで下りていった光景が忘れられない。
 田麦山は全167戸の95%が全壊した。 森山さん宅も全壊扱いだったが、同じ田麦山の中でも、さらに2キロほど奥へ入った小高集落は山の斜面に亀裂が入り、24戸約100人が集団で山を下りざるをえなくなったのだ。 跡地の家屋は取り壊され、今は物寂しい光景だけが広がっている。
 「地震から4年が過ぎ、小高の人たちの気持ちは2つに分かれたと思う。 若い人は町へ出て通勤や子供の教育が便利になっただろうが、年配の人は毎日のように帰ってきて今まで通り畑を耕している。 ふるさとを捨てるというのは、大変な意味を持つんです」
 災害で、最初に地域の力が試されるのは人命救助や避難時だ。 ここ数年、過疎地を襲う大規模地震が相次ぎ、体育館などの避難所で肩を寄せ合うお年寄りの姿が度々取り上げられた。 ただ、悲劇は一過性のものではない。 復興への道のりで試されるのもまた、地域の力である。
 小高の人々は仮設住宅で暮らした後、川口町の中心部に固まって家を建て、新たな集落を作った。 ここに住む生コン運転手、大渕伸一さん( 43 )は 「重機で元の家をバリバリ壊したときは切なかった。 あのときはみな同じ気持ちだったと思うが、それぞれ生活があるからね。 顔ぶれは一緒だけど昔のような人間関係はもう戻らないような気がした」 。

「下山」 の歴史

 実は、地震の30年余り前にも、森山さん宅の前を通って山を下りた人々がいた。 昭和48( 1973 )年、小高よりさらに4キロ奥に入った山ノ相川集落が過疎と豪雪に悩み、10戸で集団移転したときだ。
 当時35歳だった森山さんは、友人とともにガリ版刷りの月刊誌 「たむぎやま一を創刊した。 「地域の連帯意識を高めたい」 。 そんな思いからだった。 高度経済成長期を経て、純農村の田麦山でも勤め人が増加、村は寝に帰るだけの場所になり始めていた。 一方で廃村になった山ノ相川では、東京資本が民家や小学校跡を買収して 「ふるさと村」 を作るという動きもあった。
 結局、この計画は2年余りで頓挫したが、森山さんは 「たむぎやま」 の創刊第2号にこう書いている。
《 人が下山するのに他村の人は土地を買いに来る。 何とも複雑な気持ちであろうかと思う 》
 歴史は繰り返し、地震で集団移転した小高集落の跡地もその後、汚泥処理場の建設問題で揺れた。 環境を守りたいという反対派と、雇用の利点を主張する推進派に分かれ、田麦山地区全体を巻き込んだ。 最終的に業者は建設を断念したが、復興途中の狭い地区に大きなしこりを残した。

つながる人と人

 災害だけではない。 炭坑や鉱山の閉山、ダム建設…。 わが国の地方の戦後は下山の歴史でもある。 残された村は、一度人が離れれば、全く別のものに変わってしまう。 最近では過疎や高齢化で維持が困難になった集落は、補助金を出して 「強制移転」 させるという議論も浮上している。
 多くの 「下山者」 を見てきた森山さんは 「ふるさとは簡単には捨てられない」 と話し、こう続けた。 「よく自然あふれる田舎暮らしにあこがれる人がいるが、その自然は誰が守ってきたのか。 そこに住む人と人のつながりが守ってきたのではないか。 コミュニティーがあったからこそ田舎は田舎であり続けてきたんです」
 田麦山地区では、その後新たな動きも出てきた。 森山さんに続く世代から地域の担い手が少しずつ現れ始めたのだ。 3年前には、地元では 「若手」 とされる40~50代の住民20人が 「いきいき田麦山」 と呼ばれるグループを結成。 自然の中での音楽会や雪祭りなどの催しを定期的に開くようになった。 昨年廃校となった田麦山小学校は、その準備や会合で夜遅くまで灯りがともることが増えたという。
 メンバーで家具職人の森山鉄也さん( 51 )は 「地震のせいで人生が変わった人が大勢いた。 逆に地震のおかげで周囲む人のありがたみを知った人もたくさんいた。 だからこそもう一度地域のつながりを見直したかった」 。
 山を下りた小高の人々も昨夏、新しい集落に薬師堂を建で、がれきの中で残った如来像など3体を移した。 昭和20年代から毎年、秋分の日に稲刈りの手を休めて続けてきた運動会も、新しい空き地で再開した。 ふるさとは消えても、そのコミュニティーは淡々とよみがえり始めている。
 20年後、この地域はどうなっているのか。 「たむぎやま」 の森山さんに尋ねると、33年前の昭和51( 1976 )年に自身が執筆した記事を取り出した。 1面トップは 「50年後の田麦山」 。 くしくも 「2030年」 に希望を込めたような記事だった。
《 私達の田麦山は過疎の不安におののいた時代から早50年が経った 》
《 村の鎮守も、家並みもそのまゝだが、何かが違う。 住む人の活気がみなぎっていることだ 》
《 どうしたら村を住みよくできるか。 楽しい、より良い人生がつくれるか。 毎晩のように 「青年の家」 には灯りがついて、若者が集まってくる。 彼らは語る。 「オラの時代に村づくりを一生懸命やってけば、五十年後にソ、百年後にソ、絶対ソ、その成果がでると思うがんだテ 》


誰が 「ムラ」 を守るのか
  帰郷という生き方

 運命を変えたのは平成17年9月、九州南部を直撃した台、風14号だった。 日本神話で天孫降臨の地とされる宮崎県高千穂町。 18歳でこの町を離れた飯干記章のりゆきさん( 36 )は、懐かしい故郷の田畑が濁流にのみ込まれていく様を、遠く札幌の地でテレビで見た。 死者28人。 道路は寸断され、鉄橋は落下、老人たちは体育館で身を寄せ合っていた。 実家にはなかなか電話がつながらず、後になって母親と祖母が、孤立して停電した家に3日以上閉じこめられていたことを知った。 仕事を辞め、Uターンを決意した瞬間だった。
 「僕自身、都会のサラリーマン生活に疲れていた部分もあったと思う。 田舎に仕事はないというけど、食っていけないこともないだろうと。 実家には田んぼも畑もある。 何よりあの映像を見ていて、若いもんがいたほうがムラの人たちも喜ぶだろうと思った」
 飯干さんは大学卒業後、東京に本社を置くアパレルメーカーに就職し福岡、仙台、札幌と転勤を繰り返した。 長男でもあり、母親は帰郷を勧めることもあったが、役場に勤める父親は、いつもこう言って反対した。 「いんで( 帰って )こんでいい。 田舎に仕事なんかねーき」
 高千穂町の就業人口は約7600人。 その3割を農林業が占め、 「企業」 と呼べるような働き口はほとんどない。 ただ、飯干さんは 「自分ができることから始めた」 といい、最初は親戚が経営する内装工事会社を手伝った。
 手取り8万円。 並行してストリートダンスの教室も町の施設を借りて始めた。 大学時代からの特技でもあり約30人の子供たちが集まった。 空いた時間には農産物の直売所も開き、実家や近所の野菜を空き店舗で販売した。 あの台風で中断していた朝市を自分なりに復活させたものだった。
 「実は田舎って、一つでは食えなくても、合わせればなんとかなる仕事が意外にあるんです。 考えてみれば、うちの親父も兼業農家だし、そういう生き方は田舎では普通じゃないですか。 僕の周りでUターンした友達も、そこに気づき始めてますよ」

高度成長の幻影

 「息子や孫には継がせられない」 「帰ってこいとはとても言えない」 …。 今回の取材で地方のお年寄りたちから度々そうした声を聞いた。 先行きの不安な農業や漁業は自分の代で終わりにしたい。 といって田舎には勤め先もない。 ただ、農村の現状に詳しい熊本大学の徳野貞雄教授( 59 )=地域社会学=はそうした見方は一面的にすぎないという。
 「確かに田舎に職場はない。 でも、それは夕方5時まで勤めれば給料が振り込まれる職場がないだけで 『 仕事 』 はあるんです。 都市のほうが豊かで働き口も多いというのは高度成長期が残した幻影にすぎない。 田舎の高齢者たちが知っているのは輝かしい時代の都市でしかなく、今若い人たちが生きている都市は決して豊かではないんです」
 地価高騰や通勤ラッシュを持ち出すまでもなく、都市生活は行き詰まっている。 リストラや派遣切りなど雇用をめぐる問題も拡大している。 飯干さんもサラリーマン時代は、残業代のつかない 「名ばかり店長」 で、休日も月に3日ほどだった。 それでも当時は 「自分にしかできない仕事だ」 と気を張っていたという。
 「今思えば代わりなんていくらでもいたんです。 都会には優秀な人がたくさんいるけど、人が多い分、代用も利く。 でも田舎には自分の代わりはいないんです。 何より息子の代わりになれる人はいないんですよ」

「帰ってこい」

 2030年、わたしたちのふるさとはどうなっているのか。 それを守れるのは人しかいない。 人が輝けば、ムラも輝く。 ではだれが、その役目を果たせるのか。 徳野教授は 「息子を都会に出せば田畑は終わる。 娘を都会に出したら、結婚せず一生孫は抱けないかもしれない。 田舎の親たちにその覚悟はそもそもあったのか」 と挑発し、あえてこう訴える。
 「今の高齢者たちは自分の子供優先の最初の世代だった。 だから子供を悩ますようなことは決して言わずに年を重ねてきた。 でもそろそろ 『 帰ってこい 』 と言ってもいいのではないか。 言われたほうは悩むだろう。 悩めばいい。 苦しめばいい。 私は、その悩みにこそ、この国が抱える問題がすべて凝縮されているように思うのです」
 飯干さんには観光協会のアルバイトという新たな兼業も加わり、帰郷後に知り合った隣町の女性( 24 )と結婚もした。 披露宴は廃校になった母校の小学校で行われ、実家の隣の倉庫を改装して新婚生活を始めた。 今月6日には集落の神社の建て替えを祝う式典を、唯一の若手として長老たちとともに仕切り、トランシーバー片手に境内を駆け回った。 その姿は、着実にムラの景色に溶け込んでいた。
 飯干さんは 「そろそろ農業をきちんとやりたい」 と話し、自身の 「2030年」 についてこう述べた。 「帰郷してすぐには難しかったけど、去年から少しずつ親父の米作りを手伝ってるんです。 畑はばあちゃんに教わってる。 もちろん妻も一緒です。 だから20年後は夫婦で農業をやっていると思う。 僕が家族のそういう背中を見てきたように、僕の子供たちにも同じ背中を見せていきたいと思う」 ふるさとを見つめることは、この国の未来を見つめることであり、自分の足元を見つめることでもある。 家族はむろん、耕す人と食べる人との距離すら極端に離れてしまったわが国にあって、飯干さんの存在は、かすかな希望に感じられた。







 中国の毒入り餃子事件は、改めてわれわれに、わが国の食の現状を問題として突きつけた。 消費者は安くて便利なものを好むのだ、と言ってしまえばその通りだが、その奥には わが国の 「政治の貧困」 という問題 も伏在しているのではないか。

 こうした輸入食品に関わる問題が新聞ダネになる一方、マスコミ上では地方の疲弊だの限界集落の問題だのといったものが盛んに取り上げられている。 限界集落とは65歳以上の高齢者が半数を超え、冠婚葬祭など共同体の機能の維持が困難になってしまった集落を言うが、近年こうした集落の数が激増するとともに、この7年間で200ほどの集落が消滅してしまっているという。 住む者が高齢者だけになってしまえば、どう考えてもそんな村に明日はない。

 むろん、その根底にあるのは、要するに農林水産業の衰退という現実であろう。 地場の産業さえ元気ならば、都会に出ることを憧れる若者はいても、誰かが村に残り、親の後を継ぎ、自らが生まれ育った故郷を守って行こうとするだろうからだ。

 しかし、その農林水産業が衰退してしまった。 そうなれば、そうした地区の中心にある地方都市も年々活気を失い疲弊して行く。 地方へ行く機会は多いが、そうした町の中心部にある所謂シャッター街にはいつも胸が痛む。

 この1月末、政府の地域活性化統合本部から発表された 「地方再生戦略」 には以下のような記述がある。
 「基礎的条件の厳しい集落は、地域住民の生活の場であるだけでなく、その地理的条件から見て、耕地や森林を維持することを通じ、国土や環境の保全等の面で最前線の役割を担っている。 例えば、河川の源流地域等の集落が管理する棚田や森林は、国土の保全、水源の涵養、自然環境の保全、良好な景観の形成、地球温暖化の防止、林産物の供給等の機能を果たしているし、集落の地域コミュニティは、郷土文化の継承の面でも機能を果たしている 」

 「地方都市は、人々が稠密に居住し、商業、工業等の産業活動を行い、交流するなど様々な経済・社会活動を営む場であり、地域経済の中心として、また周辺にある農山漁村等を含めた地域住民の様々な生活上のニーズに応え得る広域的な拠点として、地域全体を牽引する力を発揮しなければならない 」
 まさにその通りだが、ならばかかる地域や地方都市をどうやって活性化させ、再生させて行くというのか。 要はこうした所へ若年層を呼び込んでくるしか道はなく、そのためにはまずは地域の基幹産業たる農林水産業を何とかしなければ、どう考えても有効な方策は立たない、というのが通常の認識だと言ってよい。

 そこで改めて脳裏に浮かぶのが、今回の餃子事件の発生源となったあの天洋食品の工場の姿である。 なぜあのような工場が中国に造られることになるのか。 あれを日本に造れば、当然そのための原材料は日本の農村で調達されるであろうし、それなりの雇用も発生しよう。 なのにそれが中国ということでは、その分日本の供給力は損なわれ、農山村は疲弊して行く。 まるで自分で自分の首を絞めているような話ではないか。 前記 「地方再生戦略」 は以下のようにも言うが、まるで冗談を言っているようにしか読めない。

 「農山漁村においては …… 雇用を生み出す新たな地域産業の創出等を図り、地域を維持していけるようにすることが、ひいては農林水産業を守っていくことにもつながる。 地域産業の再生の総合的な取り組みとしては、地域の雇用情勢にも対応しながら、農商工連携の促進を通じた新商品開発・販売の支援、地域イノベーションの促進、農林水産品・地域産品の販売や輸出の促進、有機農業の推進等を図る …… 」
 ならば、どうして天洋食品のような食品工場をこの日本に造るよう関係者に働きかけないのか。 「農商工連携」 とはまさにそういうことであろうし、 「新商品開発・販売 の支援」 というのもそうであろう。 「有機農業の推進を図る」 というなら、まずその前に農薬入り輸入食品を何とかするのが政府の役目ではないのか。

 政治にできることには限界があるという。 しかし、地域の再生は国政の根幹だということを認識してほしい。