か?
――



 東日本を襲った今回の大地震や巨大津波そして福島第一原子力発電所の事故に対しては、世に 「専門家」 と呼ばれている人たちから 「想定外」 という言葉が頻繁に発せられた。 しかし、日本が軍事的衝突や戦争に巻き込まれる蓋然性が低いからといって、 「想定外」 という言葉を用いて、防衛力そのものを所有する必要がないという人は少ないだろう。

 たとえ蓋然性が低くとも、生じたときに国民の生命そのものを脅かすほど甚大な被害を及ぼすものであるならば、それを 「想定外」 という言葉で片付けてはならないのである。 食料危機についても、同じことが言えると思っている。
[ 物流の混乱や買い占めによって、多くの店舗から食品が消えた ]
 東日本大震災は、食料の重要性を改めてわれわれに教えてくれた。 物流が途絶した被災地では、食料品が十分に届かない状況がいまなお続いている。 被災地から遠く離れた東京でも、納豆、牛乳などは一人一個の購入に限定された。 また、多くの消費者は食料の買占めに走った。 われわれの生命を維持するために必要な食料は、たとえわずかな不足でも、人々をパニックに陥れる。 それは、1993年の平成のコメ騒動でも経験したことである。

 今回の震災が示すように、日本で生じる食料危機とは、財布にお金があっても、物流が途絶して食料が手に入らないという事態である。 農林水産省や一部の専門家は、穀物価格が国際需給の逼迫を背景に2020年にかけて30%程度上昇するという試算をよりどころに、あたかも日本が買い負けて食料危機が発生するような可能性を示唆しているが、それは的外れな議論であろう。

 現実には日本は、国際価格よりもはるかに高い価格で食料を輸入している。 中国などに買い負けしているとよくいわれるマグロが、日本の食卓から消えたわけではない。 3年前に穀物の国際価格が高騰した際に、フィリピンでは大変な混乱が生じたが、日本ではパンの値段が少しあがってコメの消費が増えたくらいの影響しかなかった。 この事例が示すように、われわれが本当に心配すべきは、日本が食料を買う経済力がなくなるという事態よりも、物流が途絶して食料が手に入らなくなる事態であるはずだ。

 それは実際に今回の震災でも生じたし、何より想定すべき最も重大なケースは、日本周辺で軍事的紛争が起きてシーレーンが破壊され、海外から食料を積んだ船が日本に寄港しようとしても近づけない事態だ。 日本は確かに戦後66年にわたり、軍事的紛争に直接的な当事者として巻き込まれたことはない。 しかしこの間も朝鮮戦争、ベトナム戦争など、アジアは戦争と無縁だったわけではない。 中国やロシア、韓国などと未解決の領土問題を抱え、しかも北朝鮮情勢も緊迫化している昨今、軍事的紛争の可能性を 「想定外」 と呼ぶのはあまりに楽観過ぎる。

 たとえ日本国土に直接攻撃の手が加わらずとも、周辺海域で紛争が起きてシーレーンが混乱するだけで、世界にいくら食料があろうとも、日本にいくらお金があろうとも、アメリカからの船も豪州からの船も怖くて日本に近づけず、日本国内で食料危機は起きうるのである。 このように考えると、世界全体では食料生産能力が十分あるはずだから、食料危機を論じる必要がないという主張も、的外れであることがわかるだろう。 心配しなければならないのは、買う金があっても買えないという事態なのだ。

 有事の際に、国内の物流が無傷で機能していたとしても、日本の農業には、現状では、国内の食料需要を満たす力はない。 戦後一貫して増加してきた水田面積は1970年に減反政策が導入されて以来減少の一途をたどっている。 近年は耕作放棄による減少が転用を上回っているほどで、耕作放棄地はすでに東京都の1.8倍の39万ヘクタールに達している。

 耕作放棄に宅地などへの転用地を合わせれば、1960年代初頭と比較して、実に250万ヘクタールの農地が日本から消滅したことになる。 今では、肥料も農薬も十分あり、日照りや冷害も起きず、不作にならないという幸運な条件が満たされている場合に、イモとコメだけを植えて日本人がどうにか生命を維持できるかどうかすれすれの459万ヘクタールが残るのみだ。 しかも、現在の政策を続けている限り、毎年2万ヘクタールが失われていく。 もはや生命の維持すらも、国内の食料供給では賄えなくなろうとしている。

 では、日本周辺のシーレーンが脅かされ、海外からの食料供給が途絶した場合に、これまで農業予算をたっぷり使ってきた農林水産省や農業団体が 「想定外」 という言葉に逃げ込まないためには何をどう準備しておけばよいのか。 まず一定量の食料備蓄が不可欠であることはいうまでもないが、備蓄だけでは物流が2年、3年と途絶するような事態には対応しきれない。 ライブストック( 家畜 )という英語の表現にあるように、家畜を食用に回すこともできるが、これはあくまで次の穀物収穫までのつなぎの手段である。 突き詰めれば、やはり国内の食料生産能力を少なくとも維持しておかなければならないのである。

 その意味で、今回の福島第一原発事故で、食料の供給能力だけでなく、食料の安全性についても問題が生じてしまった点は、悩ましいことだ。 放射能の影響により、生乳や野菜が出荷停止されるなどの被害が生じている。 国内だけではなく、海外の輸入国も、日本からの農作物の輸入を禁止したり、放射能基準適合証明書を要求したり、全ロット検査を要求したりしている。 筆者が知る一例を上げれば、タイに農作物を輸出していた大分県の農業者は、全ロット検査を要求され、コストがかかりすぎるので、輸出を中止したという。 被害は、全国に及んでいるのだ。 政府も東電も福島第一原発周辺の農家や漁民に頭を下げればよいというものではない。

 各国の措置が科学的な根拠がなかったり、国際基準に基づくものでない場合には、検疫措置を非関税障壁として使用するものであって、WTO( 世界貿易機構 )の紛争処理手続きに訴えて、是正させる途がある。 しかし、国際基準であるコーデックスでは、放射性セシウムについては日本の基準値のほうが厳しいが、放射性ヨウ素についてはコーデックスの基準値のほうが厳しいものとなっており、WTOの手続きを援用することは困難である。

 どこの国も、口から体に入る食料については、厳しい基準を設けることは当然である。 日本も、BSE( 牛海綿状脳症 )については、当初全頭検査を要求し、その後20カ月齢以下の牛肉の流通は認めたものの、30カ月齢以下の牛肉の輸入を認めるよう要求しているアメリカと対立している。 BSEについて全頭検査を要求した日本が、今回の放射能汚染で全ロット検査を要求している外国を批判することはできない。

 最後に補足すれば、減反を廃止することを、いよいよ本気で考えるべきだ。 そもそも減反とは、過剰米が市場に流出し、米価下落を招くことを防ぐための供給制限のカルテルである。 コメの消費が長期的に減少する中( 実際には減反に伴う高米価によって拍車がかかったわけだが )、生産過剰を解消するという目的で、1970年に始まった。 具体的には、コメに代わって大豆や麦などの他作物に転作した農家に転作奨励金と呼ばれる補助金を支払うなどして実現してきた。

 生産調整の最も分かり易いデメリットは、このカルテルに農家を参加させるための財政負担の重さだろう。 その額は、年間2000億円、累計7兆円にも及ぶ。 そして何より問題なのは、これほどの金額を使っておきながら、大豆や麦の種まきだけをして収穫しないという捨てづくりという事態が進行し、転作による食料自給率向上という目的は達成されていない。 しかも、大規模農家の育成の妨げとなるばかりか、いたずらに農地を減らすことで、日本の食糧自給率そして食糧安保を損ねている点である。

 東北地方の農業がかくも厳しい事態に直面した今、このような政策を続けて行くことに何の意味があろうか。 さらに、不況によるリストラで生活水準が低下した人たちに加え、今回の大震災で仕事も財産も失い、食料を買えなくなるかもしれないという人たちがいる中で、巨額の財政支出を投下して米の価格を高く維持するための減反政策を継続することが、いかに不道徳かは、( 農林水産省と農協の関係者を除いて )誰でも理解できることではないだろうか?

 民主党政権が実施した現在のばら撒き型の農業者戸別補償制度にも問題が多い。 一定規模の生産をする主業農家だけに対して価格低下の所得補償をするのならば農家の大規模化や効率化につながり日本の農業の競争力強化を意味するので歓迎できるが、減反に参加するほとんどすべての農家( 約180万戸 )に対して生産費と農家販売価格の差を補填するという民主党の現制度では、非効率でコストの高い零細な兼業農家を農業に滞留させるだけだ。

 

 このように戸別所得補償政策を変更すれば、全国的にも、企業的な農家に農地が集約化され、農業の効率化による新生が実現することとなろう。 減反と戸別所得補償政策の見直しによって、少なくとも4000億円以上の財源を復興のために捻出できるはずだ。 旧に倍する東北農業の建設を行うために必要な費用は、被害に遭わなかった者も含め、国民全体で負担していくべきである。

 一部の報道によれば、今回の福島原発事故を受けて、日本の農作物輸出の道が途絶えたとして、TPP推進論者の根拠が薄弱となったとの発言が政府関係者からあったようだ。 農家の被害をTPP反対の口実に使おうとするもので、言語道断である。

 そのようなことを言っている暇があったら、輸出が可能になるように、国際的に説得力のある中立的な検疫体制を確立・拡充し、国際機関にいっそう積極的に働きかけるなど、あらゆる手を使って国産農作物の安全性をアピールすべきだ。 高齢化、人口減少で国内の市場が縮小していく中で、海外への輸出の道を断たれれば、日本の農業再興への道は極めて険しくなる。 時間がかかるとしても、日本はその努力を決して放棄してはならないのである。





 



 アラブ諸国で連鎖的に発生する市民革命。 そもそもの発端は、食糧不足に対する国民の不満だった。 世界を見渡せば、食糧不足とそれに伴う食糧価格の高騰が、かつてないほど深刻化している。 原油など資源価格の高騰には敏感な我々日本人も、食糧問題となると現状を詳しく知らない人が多いのではなかろうか。 しかし、日本にとって食糧不足は無視できない深刻な問題だ。 東日本大震災の影響により、一部の食糧に供給不安が囁かれている今だからこそ、我々は目の前の食糧問題と真剣に向き合わなければならない。


世界の食糧相場はかつてない
「高値不安定」 の状態が続く

―― 食糧価格が世界的に高騰している。 2008年に史上最高値をつけた大豆、小麦、トウモロコシなどの穀物は、リーマンショックで下落したものの、足もとでは再び最高値を目指す上昇基調に入った。 まさに 「食糧大高騰時代」 を思わせるトレンドを、どう分析しているか。

 穀物価格は、2008年に歴史的な上昇を見せた後、同年後半に発生したリーマンショックの影響で急落した。 海外の穀物相場が下落して円高にも振れたため、食糧を大量輸入する日本では、価格上昇が一定の範囲に収まったという認識が広まり、危機感が失われた。

 しかし、これは短期的に安値に振れただけの話だ。 中長期的に見れば、食糧市場はむしろかつてない高値不安定の状況を続けており、均衡点価格が切り替わっていく過程にある。

 これまで、大豆、小麦、トウモロコシなどの穀物価格は、平均して1ブッシェル=5ドル、3ドル、2ドル程度だった。 干ばつによる不作などの影響で、一時的に高騰することもあったが、不足が解消されれば元に戻り、総じて安値で推移してきた。

 ところが2000年代に入ってから、過去と比べて2倍~3倍のレベルで均衡点価格が上ぶれし、それぞれ足もとでは14ドル、8ドル、6ドルにまで上昇している。 この上昇基調は今後も続いていくだろう。

―― 足もとで食糧価格が高騰している背景には、どんな理由があるのか。

 食糧価格が再び高騰を始めた背景には、新興国の需要が急拡大しているなかで、異常気象によって穀物の生産が減少し、需給逼迫が起きていることがある。

 昨年、穀倉地帯である黒海沿岸地方が干ばつに襲われたロシアは、小麦の減産・輸出禁止を行なった。 同じく、小麦の生産地帯であるカナダが作付け期に豪雨に見舞われ、オーストラリアでも、西部で干ばつ、東部で大洪水という異常気象が起きた結果、前年比で増産は維持したものの、品質が劣化して輸出が減少した。 その反動で米国に買い付けが集中し、在庫が減少している。


食糧の価格高騰と不足を招く
あまりにも激しい中国の需要

 それに対して、中国をはじめとする新興国では食糧需要が急拡大している。 2000年代以降、新興国の景気拡大、所得増加、都市化に伴う世帯数の増加、食生活の変化という一連の流れが加速したためだ。 とりわけ、基礎食糧であり飼料にも使われる穀物の需要増は顕著だ。

 今回は、代表的な穀物ばかりでなく、コーヒー、ココア、オレンジジュース、砂糖などに加え、菜種、パーム油、コショウ、綿花、天然ゴムに至るまで、農産物が軒並み高騰している。 アラブ諸国では、食糧不足に喘ぐ国民の不満が市民革命の大きな要因の1つとなった。

―― 新興国の食糧需要はそれほど激しく増加しているのか。 このままいけば、食糧不足が価格を高騰させ、さらなる食糧不足を招くという悪循環に陥る可能性もある。

 世界の穀物市場は、1990年代後半に18億トン台だったが、10年間で4億トンも拡大し、足もとでは22億トンを越えている。 その最大の牽引役は、やはり中国だ。 国内で家畜の肉の消費量が増えているため、飼料用需要が急増している。 ちなみに世界が消費する穀物の4割以上は飼料用に使われている。

 世界の穀物在庫は1億2000万トン台、在庫率( 年間消費量に対する期末在庫の割合 )は19%台となっており、これは世界需要をうまく賄っていける水準ではある。 だが、実はそのうち3分の1以上は中国の在庫となっている。

 中国は、増え続ける需要に対応するために国内で大増産を図っているが、それも限界に来ている。 これまで自給していたトウモロコシについては、ついに昨年から130万トンに及ぶ輸入を始めた。 食糧生産地帯である華北平原が干ばつに見舞われた影響もあり、同じく異常気象に見舞われたオーストラリアの質の低い小麦まで輸入し始めたという話も聞かれる。

 中国による穀物輸入は「 一時的な対応」 と見る向きもあるが、私は中国が穀物の恒常的な輸入国になる始まりではないかと見ている。 FAO( 国際連合食糧農業機関 )も日本の農水省も、2020年までの食料見通しについて、「 中国の旺盛な需要に追いつけず、世界の在庫が取り崩されていく」 と見ている。 今後、価格上昇圧力が強まり、さらなる食糧不足を招くのは必至だ。


2008年の高騰時とは似て非なる現状
今や投機マネーは相場の主役ではない?

―― 08年に起きた歴史的な資源・食糧価格の高騰は、新興国の実需よりもむしろ投機筋によるマネーゲームによってもたらされた側面が大きいと言われる。 当時と足もとの状況を比べて、似ている部分と異なる部分は何か。

 この需給逼迫ぶりに目を付け、投機マネーも再び市場に戻り始めている。 彼らがさらなる相場高騰を演出している側面は、確かにある。 ヘッジファンドをはじめとする投機筋の原資は08年に1兆ドルだったが、リーマンショックを経て急減した後、足もとでは再び同水準まで拡大しているようだ。

 今回は、昨年11月以降続いている米国の金融緩和により、投機筋にとって動きやすい下地ができている。 FRBがQE2( 量的緩和第2弾 )として6000億ドルを超える市中の国債を買い入れ、米ドルを放出したため、カネ余りの状況になっているのだ。

 ただし、リーマンショックで大きな損失を被った投機筋は、以前より慎重になっている。 それに、相場高騰と言うと投機筋ばかりが注目されがちだが、2000年代に入って需給逼迫の主因となっているのは、一貫して新興国の需要増だ。 基本的には、需給の逼迫感が高まって価格が上昇した市場へ投機マネーが流入し、二次的に相場高騰を後押しするという構図になっている。

 振り返れば、1970年代の資源・食糧価格上昇は、日本やドイツなどの先進国が戦後の復興を実現し、需要が拡大したことによってもたらされた。 しかし、今は中国やインドなどの「 人口大国」 が需要を牽引しているため、同じ需給逼迫と言ってもレベルが違う。 今の新興国が成熟国家にならない限り、価格上昇が止まる見通しは立たない。

 投機マネーの威力は確かに大きいが、それだけで相場が高騰するという一過性の状況では、もはやなくなっている。


実需が価格を押し上げる時代に突入
高騰への 「慣れ」 がさらなる高騰を呼ぶ

 オイルマネーも同様だ。 03年から08年にかけて、原油価格が毎年10ドル以上も上昇する状況が続き、産油国の石油収入は膨張した。 それを政府機関がソブリンファンドという形で海外運用していたため、オイルマネーは世界中に還流していた。 しかし、リーマンショックを経て、そのインパクトはかつてほどではなくなった。

 直近では、中東情勢の緊迫化が産油国に波及し、原油の供給不足を見越した価格上昇が進んでいる。 しかし、サウジアラビアやバーレーンなどの産油国は、今回の騒動の一因が食糧不足にあることを踏まえ、国民1人につき20万~30万円を給付するなど、「 不満のガス抜き」 を行なっている。 そのこともあり、大量のオイルマネーがマネーゲームの資金として市場に流入してくることは、以前と比べて考えにくい。

 そう考えれば、実需が食糧価格を押し上げるという構図が今後ますます鮮明化していくと思われる。

―― ひと口に食糧高と言っても、それは原油をはじめとする資源価格の高騰とも密接にリンクしていきそうだ。 同じく足もとで不安視されている原油市場をどう見るか。

 1990年代まで1バレル=20ドル以下の安い原油を前提に成り立っていた世界の産業は、100ドルを超える高騰に耐えられず、リーマンショックをきっかけに暴落した。 07年の50ドルから08年には150ドルまで高騰し、同年末には30ドルまで下落するという、あまりにも大きい変化だった。

 埋蔵量の枯渇不安や地球温暖化など、原油をはじめとする従来型の資源に関わる課題は多いが、これまでの原油相場は、世界の産業に省エネへの構造転換を促す「 催促相場」 だったとも言える。

 リーマンショック後の原油相場は、09年後半から昨年まで、1バレル=80ドル近辺で安定的に推移してきた。 とはいえ、前回の原油高騰が始まる以前の07年だったら、この水準でも大変な騒ぎになっただろう。 世界はすでに、原油価格の高止まりに順応しつつあるとも言える。

 過去を振り返ってもわかるとおり、世界経済は相場の大きな「 変化」 に耐えられないが、「 水準」 が切り上がることには順応できる。 実際、リーマンショック後は電気自動車や太陽光発電など、代替エネルギーの開発がさかんになったものの、足もとでは景気回復と共に世界の原油需要も一斉に伸び出している。

 原油の日産量は、2010年の約8780万バレルから今年は約8930万バレルまで増加し、過去最高を更新した。 足もとの2月後半には、リビア情勢の緊迫化で供給不足が強まった結果、WTI原油価格が瞬間的に85ドルから100ドル近辺まで急上昇している。 このトレンドを見ると、今後原油価格は水準そのものが100ドル台へ切り上がる可能性もある。


燃料、肥料、資材の値上がりが直撃
原油動向にも大きく左右される穀物事情

―― 原油価格の高騰は、やはり食糧価格の高騰を招く大きな要因になるだろうか。

 近代産業は全て「 石油漬け」 だ。 生産コストが上昇するという意味において、食糧も原油と無関係ではない。

 たとえば穀物は、植え続ければ毎年収穫できる再生産可能な資源だが、そもそも農家の生産のベースとなる水や土地は恒常的に不足している。 そこに原油高が重なれば、燃料、窒素・リン・カリウムなどの肥料、ビニールハウスなどの資材も値上がりする。 そうなると、農家は商品に価格転嫁せざるを得ない。

 直近の米商務省の見通しによると、価格上昇による需要減退が起きたことにより、供給意欲がわき、穀物の増産気運が高まってはいるようだ。 しかし、産油国に市民革命の波が広まり、原油の減産も現実味を帯びてきた。 その結果原油高が進めば、食糧はたとえ増産基調に戻ったとしても、上昇圧力が消えないだろう。

 大豆、小麦、トウモロコシなどの穀物の平均価格は、過去30年と比べて2~3倍まで切り上がった現在の高値が定着するだろう。 ボラティリティが高まり投機マネーが入ってくると、瞬間的にはさらに20~30ドルまでオーバーシュートする可能性もある。


世界が不安視する日本の食糧輸入
今後重視すべきは 「ムダの削減」

―― 需給バランスを安定させ、穀物価格の上昇を防ぐためには、どうすればよいか。

 国内での増産に加え、先進国が協力して備蓄を増やしていくことが必要だ。 とりわけ日本については、「 ムダの削減」 が重要になる。

 日本は国内でコメ、小麦などの穀物を年間1000万トン生産しているが、一方でその3倍となる3000万トンの穀物を輸入している。 つまり国内では、合わせて4000万トンが供給されていることになる。

 ところが、実際人々の口に入るのはその半分の2000万トンに過ぎない。 残りは残菜や賞味期限切れなどの理由で、捨てられてしまうという。 これは、全くもって大きなムダである。

 人口1億3000万人弱、国土38万平方キロメートルの日本が1000万トンの穀物しか生産していないことに対して、人口も国土も日本の半分程度の英国では3000万トン、日本より国土が1割小さいドイツも5500万トンの穀物を生産している。 国際マーケットがこれだけきつくなっている時代に、日本が3000万トンも穀物を輸入し、しかもその多くがムダになっている状況は、明らかにおかしい。

 これを見ても、日本人は食糧不足に対する危機感が薄いと思う。 むしろ、「 コメや小麦は余っているから、もっと備蓄を減らしたほうがよい」 と言う人さえいる。 しかし、国内でコメが余る理由は、食糧の自給体制が整っているからではなく、3000万トンもの穀物が当たり前のように輸入されているからだ。 中国と共に、日本の過剰な穀物の輸入は国際マーケットで不安視されている。

 今後、食糧が高騰すれば、ムダの削減や食育が浸透する可能性はある。 ゆくゆくは食糧不足が顕在化し、国内で大増産へと舵を切ることになるだろう。

 ただしそうなったときに、日本に弾力的な農業生産力があるかどうかは甚だ疑問だ。 多くの農家が資金不足や人手不足に悩んでいるし、水利施設の管理費は事業仕分けで6割も削られてしまったこんな状態で、来るべき危機にどうやって対処するつもりだろうかこの機会に、日本も食糧に対する考え方を改めるべきだろう


穀物は単なる商品でなく 「政治財」
大震災を機に危機感を取り戻せるか

―― 3月中旬に発生した東日本大震災では、被災地の農業が大きな打撃を受けた。 大震災は日本の食糧市場にも影響を与えるだろうか。

 今回の大震災では、不安を募らせた消費者の買い占めにより、スーパーやコンビニの店頭から、おにぎり、弁当、カップ麺、パンなどの食糧が一斉になくなった。 商品の原料ベースで見ると、これは穀物が消えたことに他ならない。 異常事態における穀物は、足りないとなるとパニックを引き起こすことから、単なる商品ではなく 「政治財」 に変わり得る重要なものなのだと感じた。

 震災の影響で一時的に食糧不足が顕在化すれば、穀倉地帯では 「まず自分たちの食糧を確保しよう」 という意識が強まり、都会への 「売り惜しみ」 が生じるかもしれない。 ライフラインが完全に復旧していない影響もあり、品薄でパニックになればさらなる買い占めが起きる可能性もある。

 その結果、 「食糧の自給にもっと力を入れるべき」 という議論が盛り上がる可能性はある。





食と資源
 

 先進国に住む私たちは、おそらく人類史上初めての飽食を経験しています。 しかし、現在のような飽食、つまり、ありあまる食料に囲まれた生活はそう長くは続かないと考えられます。 飢餓を経験することになるかどうかまではわかりませんが、食料が不足し、価格が高騰することは間違いないでしょう。 しかも、それはかなり近い将来起きそうです。

 世界の人口は年間に約8千万人も増加しています。 これは一日にすると約22万人。 つまり、明日の夕食は、今日の夕食よりも22万人分多く準備する必要があるのです。

 しかし、もっと大きな要因があります。 例えばお隣の中国は、一人っ子政策の効果もあり、人口増加率は平均年0.48%と世界平均の半分以下です。 ところが、1994年頃まで大豆の純輸出国であった中国は、今では5030万トン( 2009年 )と、日本の17倍もの大豆を輸入しています。

 もちろん、中国の人々が大豆を大量に食べるようになったということではありません。 所得が向上したことによって、肉や乳製品の消費量が増え、家畜を養うためのエサとしての大豆の消費が急速に増えたのです。

 人間が1キロの穀物を食べるのには、1キロの穀物があればいいのですが、1キログラムの鶏肉を作るのには4キロの穀物が必要です。 豚であれば6キロ、牛の場合にはなんと11キロもの穀物が必要になります。 肉を食べるようになると、より多くの穀物が必要になるのです。

 人口は年1.2%( 世界平均 )でしか増加しないとしても、経済的に豊かになればなるほど、私たちが必要とする食料の量は急速に増大するのです。 拡大を続ける人間の胃袋を、地球はどこまで支え続けることができるのでしょうか。

 供給側の状況はどうでしょうか? 地球上の土地面積は限られており、耕作地を増やすことは困難になっています。 それだけではなく、バイオ燃料を作るエネルギー作物の栽培のため、食料を生産する耕作地は減ってしまう可能性すらあります。 今や世界的には、耕作地の争奪戦が起きているほどです。

 気候変動によって干ばつや長雨が発生し、収穫量が低下する地域もあります。 2008年の世界的な食料不足と価格高騰は記憶に新しいところですが、昨年2010年も、ロシア、カナダ、インドネシアなど、世界各地で異常気象のために収穫量が落ち込み、価格が急騰しました。 ロシアなどいくつかの国は、小麦の輸出禁止も行いました。

 今年もいくつかの地域では、気候変動による影響が起きるでしょう。 より長期的には、これまでの生産地が栽培には不適になってしまうことも予想されています。 気候の温暖化により収穫量が増える地域も一部あるでしょうが、世界的には食料生産量は低下するか、少なくとも不安定にはなりそうです。

 それ以外にも、潅漑に用いる水の不足、トラクターなどの燃料、化学肥料や農薬の原料である石油価格の高騰、耕作地の土壌流失など、食料生産を低下させる要因が多数あります。

 日本の場合には、これに加えて今回の3.11の震災の影響も考えなければいけません。 被害を受けた田畑の面積が、日本全体に占める割合はまだ小さいのですが、太平洋岸の漁港や漁船が大きな被害を受けたことを考えると、むしろ水産物への影響の方が大きいかもしれません。 さらには東電原発事故の影響は長期に及ぶであろうことから、より深刻であると言えるかもしれません。

 今後の食料需要の増加と食料生産の低下を正確に予測することは困難です。 しかし、この2つのトレンドが継続することは間違いなく、両者のギャップはどんどん開いていくでしょう。




 私たちが毎日口にする食べ物は、どのように作られているのでしょうか?

 食べ物が流通する過程でさまざまな加工がなされていること、またそこには何らかのリスクが生じることを私たちは知っています。 しかし、その生産現場の様子というのは、私たちは知る機会もなく、どのような問題が発生しているかはなかなかイメージできません。

 現在、農家の方々が田んぼや畑で丹精込めて作ったコメや野菜、あるいは広い牧場で牧草を食んで育った牛。 職人さんが真心を込めて作った味噌や醤油、お菓子など …… そうした私たちがイメージするどおりの食べ物は、残念ながらもうごく一部の限られたものだけになってしまっています。




 真っ赤なトマトは、大地の上で太陽をたっぷり浴び、虫たちが授粉してできたものではなく、温室の中で水耕栽培で育ち、授粉せずにホルモン剤を塗布することによって結実したものかもしれません。

 また、ブロイラーの鶏ばかりでなく牛ですら、一生の間に一度も屋外の広い牧草地の上を歩くことがなく、牧草ではなく濃厚飼料を与えて室内で飼育されたものもいます。 そんな風に人工的に作られた食材の方が、もしかしたらもはや多いかもしれません。




 手作りと信じて買った食品が、自宅に持って帰ってよく見てみると 「手作り風」 であったことなどは、皆さん誰もが経験したことがあるでしょう。 機械化された工場で作られているというだけであればまだ良いのですが、中には本来とは似ても似つかない材料で作られたものもあります。

 例えば、冷蔵保存の必要がないコーヒークリームは、牛乳から作られたのではなく、透明な植物油に白い色とそれらしい風味を付けたものです。 たっぷりと卵の詰まった子持ちシシャモやおいしそうなイクラも、同様に植物油などで作られた人造卵かもしれません。

 本来は畑などで作られる自然の恵みであったはずの食べ物が、いつの間にか形だけのものとなり、実際には工業製品化しているというのは、残念ながら現在ではよくあることです。 規格通りの均質な食べ物を大量に、ほぼ一年中、安定的に供給しようとすると、どうしても不自然なことをせざるを得ないのです。




 私たちの食べ物がどうやって生まれているかに関して、もう一つ別の意外な事実は、今や食材の多くが、世界中から運ばれてきているということです。

 小麦などの穀類や牛肉などがアメリカやオーストラリアから、野菜が中国やアジアの国々から輸入されているのはもうおなじみですが、少し意外なのは魚です。

 江戸前寿司と言えば、本来は江戸前の東京湾で獲れた魚がネタと決まっていましたが、今やマグロはヨーロッパで水揚げされた大西洋産が大量に空輸されていますし、タコはアフリカのモーリタニアから、サケマスはチリからという具合に、世界中の海で獲られたネタを使っているのです。

 これは、一つにはもう世界の水産資源がすでに過度に消費されており、日本の近くでは十分な量の魚を獲ることができないという理由が挙げられます。 魚を獲る努力を増やしても、1980年代以降、漁獲高はほとんど増えていないのです。

 それを補うように急速に拡大しているのが養殖で、今や世界の水産物の約1/3が養殖モノです。




 もう一つの理由は、日本やその近くで獲られた、または作られたものを使うよりも、海外産のものの方が圧倒的に安いことです。 人件費をはじめあらゆるコストが安い途上国から仕入れれば、価格を大幅に下げることができます。

 そうした流れによって、輸出する途上国は外貨を稼ぐことができ、輸入する私たちは安く食材を手に入れることができます。 食材の供給をグローバル化することにより、世界経済が発展し、誰もがその恩恵を享受することができる、自由主義経済の信奉者はそう主張しますが、実際には話はそう簡単ではありません。

 できるだけ安く作物を作るために大規模農園、いわゆるプランテーションが開発されれば、大規模な自然破壊は避けられません。 自給自足のための農業から、市場経済の農業に巻き込まれることによって、かえって貧困が酷くなる地域も出てきます。

 さらに不足気味の貴重な食物を自国で消費するのではなく海外に輸出することについての倫理的問題や大量の燃料を使って食料を輸送することの環境負荷の大きさなど、私たちが安い食料を手に入れていることの裏には、このような実に多くの問題も潜んでいるのです。

 私たちが毎日何げなく食べているもの。 昔と同じ食べ物のように見えても、どこから来ているのか、誰がどうやって作っているのかを知ると、実はとても大きく変容しているのです。 これにはメリットもデメリットもありますが、えてして影の部分は見えにくいものです。 自分が口にするものは果たしてどこから来ているのか? 時にはそんなことを考えてみることも必要かもしれません。



 

 タイに居れば、おいしいタイ料理やトロピカルフルーツを存分に食べることが出来ますが、それだけであれば、日本にいても同じことかもしれません。 日本でも、今やタイ料理店はけっして珍しくありませんし、スーパーの店頭には世界中の果物が並んでいます。

 いや、タイに行ってこそ本場の味が楽しめるし、その場の空気、雰囲気を含めたおいしさがあるのだとか、取れたての新鮮な食材にはかなわないとか、それはいずれも正しい指摘ではあるのですが、居ながらにして世界中の食べ物を楽しむことができるのが、今の私たちの生活です。

 それだけではありません。 日本の伝統的な料理、食材なのに、その原料を今や海外からの輸入に頼っているという場合もあります。 例えば大豆は、醤油や納豆、味噌、豆腐などの原料となり、和食のもっとも基本的な素材と言ってもいいと思いますが、今やその95%は輸入された大豆です。 日本で必要とされるだけの大豆を日本の畑では作りきれないという事情もありますが、やはり最大の原因は、海外で作って輸入した方が安いからでしょう。

 食事をする、さらには食べ物を手に入れるということは、私たちの生活のもっとも基本です。 したがって、ついこの間までは、食べ物は自分たちで作ったり、あるいは自分の住んでいる場所のごく近所から集められていました。 ところがこのわずか数十年の間に、私たちは海外の珍しい食べ物や、日本ではその時期には取れない食べ物、あるいは日本産のものよりずっと安い価格の食べ物を普通に口にするようになりました。

 しかしそんな状態が、果たして今後いつまで続くのでしょうか。 私たちが海外の食料に依存することができるのは、輸送手段の発達と、その安い費用に支えられています。 今後石油価格が大幅に高騰すれば、世界中の安いところから食料を買ってくるというこれまでのやり方は通用しなくなってしまいます。

 それに、もし石油の価格が高騰しないとしても、食料を輸送するために大量のエネルギーを使用し二酸化炭素を排出することが、果たして 「正しい」 方法なのか、という疑問も投げかけられています。

 皆さんは 「フードマイレージ」 という言葉を聞いたことがあるでしょうか。 これは、輸入される食料の重量に輸送距離( マイレージ )を掛けたものです。 同じ量を輸入しても、遠くから輸入するほど、フードマイレージは大きくなり、それだけ環境に負荷を与えていることを意味します。

 この考え方は1990年代にイギリスのNGOによって提唱されたものですが、これを日本に当てはめてみると、国民一人あたりの値が7,093tkm( 単位:トンキロメートル/人 )となります。 これはアメリカの1,051tkmの約7倍、同じ島国のイギリスの3,195tkmと比べても2倍以上にも及び、世界の先進国のなかでも突出していることがわかりました( 2001年調べ  農林水産政策研究所 『 農林水産政策研究No.5 』 より )。 食料輸入量が多い上に、輸送距離が長いことがその原因です。

 フードマイレージで食料の環境負荷や、海外から輸入される食品の問題をすべて把握できるわけではありませんが、もし同じものを食べるのであればフードマイレージが小さいものを選ぶようにすれば、海外、それも遠くの外国に極端に依存した現状を是正していけるだけでなく、石油価格が高騰したときにも影響を受けにくい体制づくりにもつながります。 つまり、フードマイレージを小さくするように心掛けることは、私たち個人ができる環境問題への対策であるだけでなく、食料安全保障という観点からも有効だと言えます。

 それでは、どうやってフードマイレージを測るかです。 たとえば有機野菜の宅配サービスを行っている大地の会では、フードマイレージ・キャンペーン( http://www.food-mileage.com/ )を行っていて、Web上で自分が食べる食材のフードマイレージを計算することができます。 私たちが毎日口にする食べものがどこから来ているのか、そしてそれが環境に与えている負荷はどのぐらいなのか、一度じっくり調べてみるといいかもしれません。



   

 「飽食の時代」 という言葉が使われたのは既に20年以上も前のことですが、その状況はさらに進行しているようです。 世界中のあらゆるところから、工業製品のようにして作られた食べものが、安く、大量に届けられ、私たちの世界は食料に溢れているようにすら思われてきます。

 しかし、それが錯覚に過ぎないことは、3.11の震災後のスーパーの棚が示してくれました。 むしろ、私たちは世界中から食べものをかき集め、その結果、なんとかこの 「虚栄」 を保っていると言えるでしょう。

 日本はもともと食料自給率が低い、つまり海外依存度が高いのですが、今回の東電原発事故によって引き起こされた広範囲の放射能汚染を考えると、今後、海外への依存を少なくとも一時的にはさらに増やさなければいけない状態にあります。 ところが今年も、既に中国やフランスなどの食料輸出国から、異常気象のニュースが聞かれます。 全世界的な食料危機が刻一刻と近づいてきているようにも思えます。

 こうした状況を見直し、私たちの 「食」 を確保するための方法の一つとして、今回は食品廃棄物の問題を取り上げたいと思います。

 ご存じでしょうか。 日本では、毎年2000万トン、つまり消費する食品の2割、輸入する食品と比べると3割もの食品が廃棄されているのです。 ( 表参照 )
1年間に日本が消費する食糧 9000万トン
1年間に日本が輸入する食糧 5800万トン
1年間に日本が廃棄する食糧 2000万トン
 単純に考えれば、これを減らすだけで、私たちが生産又は輸入しなければならない食品の量を大幅に減らすことができます。 今後もし供給量が本当に少なくなるような事態になったとしても、ひもじい思いはしなくて済むはずです。

 なぜ毎年2000万トンもの食品が廃棄されるのでしょうか? この数値には、加工や調理段階で廃棄される非可食部も含まれているのですが、もっとも多いのは食べ残し、そして買っても調理せずに捨てられてしまうものです。 本来であれば食べることができたものが、私たちの血となり肉となったはずのものが、ゴミになってしまうのは残念なこと、いや罪なことです。

 私は、食品の大量廃棄の背景にあるのは、食品の 「商品」 化ではないかと思っています。 今やスーパーに行けば、パッケージに包まれた、まるで工業製品のように規格化された食品が、季節と関係なく大量に並んでいます。 それがもともとは他の生きものの命であったことを想像するのは難しくなっています。

 本来、食べることは命のリレーです。 ところが今や食品は、他の消費財と同じように 「消費」 するものになってしまい、今や私たちは本来の食べものがもつ特別な意味をすっかり忘れてしまっています。 だから、使わない分を捨てることにも抵抗感が薄れてしまっているのでしょう。

 とはいえ、こうした問題に食品の流通に関わる企業や団体がすべて無関心で、何の対策もとられていないかというとそうではありません。

 たとえば、大手スーパーの西友は売れ残った食品の廃棄を極小化する、ある画期的な取り組みを行っています。 それは、売り場から撤去した食品を、賞味期限前であれば社員に割り引き販売するという制度です。

 これによって、これまで細かいルールを設け、人件費含め多大な廃棄コストをかけていたものが、削減されるどころか 「売上」 に転じるわけですから、一石二鳥です。 環境問題や社員の家計のことを考えれば一石三鳥にも四鳥にもなる仕組みといえるでしょう。 この取り組みが始まって3年、西友の食品の総廃棄量はなんと半減するまでに至ったそうです。 ( 重量ベース )

 また、コンビニ大手のローソンは、地区生活者の自立支援を行うNPO法人 「さなぎ達」 が運営する 「さなぎの食堂」 と連携し、この問題の解決に取り組んでいます。 それは、賞味期限が近づき、廃棄せざるを得なくなったパンや弁当を 「さなぎの食堂」 に無償提供し、それを材料に安価なメニューとして地区生活者に提供するというものです。

 企業にとっては廃棄コストとCSRの2つの側面から問題が解決され、地域にとっても地区生活者の食の問題とゴミの減量を同時に解決できる仕組みになっています。

 これらはもちろん一例に過ぎず、廃棄食品を削減する取り組みは生産、流通の両方からさまざまな取り組みが実施されています。 そこには、企業としての制約条件を満たしつつ、我慢も無理もないサステナブルな仕組みが志向されており、今後こうした取り組みは自然に広がっていくことが期待されます。

 しかし、こうした取り組みはいずれも、企業がバックヤードで人知れず努力している部分です。 これに比べると、むしろ消費者である私たちの意識や取り組みのほうが遅れているかもしれません。

 消費期限と賞味期限に関するルールや野菜の鮮度の見分け方、棄てないためのレシピなどさまざまな情報が、私たちが食品を棄てないための情報として提供されています。 にもかかわらず、こうしたものを目で見る、匂いを嗅ぐといった五感を働かせることなく、賞味期限の日付がくれば無条件に食材を 「棄てる」 私たちは、食材を最後まで使い切る工夫や意識をも棄ててしまっているのではないでしょうか。

 現在の日本の食料自給率が示すのは、 「食」 は私たちが思っている以上に不安定な状況を迎えているということです。 これからも、スーパーに行ってお金を出せば、いつでも好きなものが好きなだけ買えるという認識は、経済的な安定が失われつつある今の日本において、もはや誤解と言っても過言ではないでしょう。

 私たちは 「食を安定的に確保する」 ということを、 「目標」 として捉える時に来ています。 それに対する備えとして、生産量や輸入量を増やすのではなく、まずは食べものに対する自分たちの考え方を見直し、食べられるものを捨てないという最低限のルールを守り、必要な分だけ作り、エネルギーを循環させるということを徹底する必要があるのではないでしょうか。



 


 食べることは命のリレーです。 単に必要なエネルギーを体内に取り込むことではなく、命のつながり、つまり関係性こそが重要なのです。

 ところが、食品はいつの間にかただの 「商品」 となってしまいました。 その結果、他の生きものの命をいただく、そのことで自分たちの命を長らえさせている、という感覚が次第に薄れ、私たちは食べものを通した関係性を意識することが少なくなってしまいました。

 たしかに、世界中の食べものを、いつでもどこでも好きなときに食べられるというのは魅力的です。 エキゾチックな料理を楽しんだり、地球の裏側から運ばれた季節外れの食べものが入手できるようになって、私たちの食生活は一見豊かになったようにも思えます。 残業を終えて、あるいは友だちと遊んだ後、どんなに遅い時間でも、コンビニに行けば簡単に食べものが手に入るのは、便利と言えば便利です。

 しかし、そのいっぽうで日本の伝統的な食文化は崩壊の危機を迎えています。

 国や自治体もそれを守るためのさまざまな働きかけをしていますが、なかなか効果的な手が打てていない状況です。 たしかに食文化を守ろう、といっても個人であれ企業であれ、具体的に何をしていいのかわかりません。 そこで今回は、普通の人たちが食文化を守るための第一歩となる私なりの視点を示していきたいと思います。

 食文化とはそれを食べる地域の特性と歴史を背景にした総合的な文化です。 その地域にどのような自然があり、その結果、どのような食材があるのか。 それをおいしく食べるために私たちの祖先はどのような工夫を積み重ねてきたのか。 歴史的な時間軸で見れば、私たちは常に食べものに恵まれて来たわけではありません。 むしろ人類の歴史は、飢餓との闘いであったとも言えます。 そのような中で、私たちは大切な食べものを家族と、仲間と、そして神とわかちあって来たのです。 そうした私たちの生き方や、周囲との関わり方、関係性のあり方のすべてが、食文化の背景にはあるのです。

 たとえば今や日本を代表する食である鮨は、言うまでもなく日本が四方を海に囲まれ、水産物に恵まれ、そしてイネを育てるのに適した環境であったからこそ生まれた食べものです。 しかし、生の魚は傷み易いので、長持ちさせるために酢や昆布で〆たり、殺菌作用のあるワサビを用いたり、様々な工夫を重ね、進化してきました。

 イタリア料理の基本であるトマトソースは、南イタリアの太陽を浴びて育ったトマトを一年を通じて保存、利用する手法として発達しました。 そして興味深いことには、トマトは南米が原産地であり、イタリアで広まったのは16世紀以降のことです。 つまり、当時のイタリアの優れた海運がもたらした美味であったのです。 歴史と共に、食べものも進化するのです。

 あるいは世界各地には様々なお酒がありますが、これらはいずれもその地域に多い穀物を原料としています。 原料は同じでも、蒸留やろ過、熟成などの方法の違いで、異なるテイストのお酒に仕上るのは、皆さんよくご存じの通りです。

 そうした多種多様な食べものや飲みものを居ながらにして楽しめるようになったことも、行き過ぎるとその地域の伝統的な食の存在を危うくしてしまうことがあります。 作り手や売り手、そして伝統的な食べ方が失われてしまうからです。

 さらに影響が大きいのは、安くて早い、ファストフードの普及です。 これも便利ではあるのですが、それに頼りすぎた結果、地域の食文化が失われてしまうようでは心配になってしまいます。 あまりにも安い価格は、食にまつわる地域の営みを破壊してしまうこともあります。 また、遠い場所から運ばれた食材を多く使っていることを考えると、いつまで安定的に供給されるかわかりません。

 ですから、自分たちの伝統的な食に強いこだわりと誇りを持つフランスでは、マクドナルドが店を出した際には農民たちが店を打ち壊しました。 また、独自のカフェ文化があるパリには似合わないとして、つい最近までスターバックスも見かけませんでした。

 最近ではファストフードに対して、スローフードという言葉も用いられるようになって来ています。 フランス同様、食にこだわりを持つイタリア発の言葉です。 もちろんこれはただゆっくり食べればいい、準備や調理に時間をかければいい、というものではありません。 地域の旬の食材を使い、手抜きなしの昔ながらの方法で調理して、家族や仲間とゆっくりと食事を楽しむ。 そのプロセスすべてを楽しもうという考え方です。 日本を含め、世界中から共感を得て、それぞれの地域で独自のスローフードの見直しが進んでいます。

 日本でも最近はこうしたスローフードや、地域の食の見直しが少しずつ始まっています。 食材をお店で買ってくるのではなく、地域のお年寄りに話を聞きながら、自分たちで作ってみようという人たちもいます。 なぜなら、考えてみたら、家で味噌を作る、漬物を作るという日本の食生活は、もとはスローフードだらけだったのです。

 地域の食材を使った料理を売り物にするお店も増えてきました。 赤提灯の代わりに“緑提灯”を掲げて、国内産、特に地場産の食材を使っていることをアピールするお店も、既に3500軒を超えています。

 こうした取り組みは、確かに 「美しい姿」 かもしれませんが、決して 「食文化を守ろう」 という使命感だけで進んでいるわけではありません。 地域での交流を通じて、それぞれが地域にもともとある食材や料理を知り、分かち合い、それを 「美味しい」 と感じるところから始まっているのです。 これをもっと味わいたい、知りたい、残したいという自然な欲求が、地域の食文化を大事にする取り組みへの原動力になっており、取り組みそのものが無理のない、持続可能なものとなっているのだといえます。

 日常生活のなかで、私たちは食に対して 「美味しい」 と感じることがだんだん少なくなってきています。 それは、単に料理の問題ではなく、私たちが食を楽しもうという姿勢を失っているせいともいえます。 つまり、いつ、何を、どのように、誰と食べるかということがあまりにも軽視されているのです。

「同じ釜の飯を食う」 という言葉は人の関係の深さを意味する言葉ですが、これは 「美味しい」 という食の記憶が連帯感につながっていることを示すものでもあり、また、誰かと食べることがいかに重要かを表しているとも言えます。

 誰かと食を楽しもう ― 毎日三食すべてとはいかなくても、週に何度かはその意味を考えながら、きちんと食事をする。 食料自給率を上げるとか、地産地消を推進するといった行政のキャンペーン以上に、私たちが感じる 「美味しい」 が、地域の、ひいてはこの国の食文化を守ることにつながっていくことでしょう。 ファストフードや 「個食」 では満たせない空腹もあるのです。