Aug. 1, 2014



 人間が生きていく上でもっとも大切なこと、それは食べることです。
 食べ物がなくなれば、生きていくことはできません。
 それは動物も同じことです。
 つまり、食べ物とは基本的には、餌( えさ )のことです。
 しかし、人間はこの餌( えさ )としての食べ物に満足しませんでした。
 工夫して料理としての食べ物を生み出したのです。
 人間にとって、食べ物とは、餌( えさ )という 「自然」 と、料理という 「文化」 と、この二つの意味をもつことになったのです。

 食材の獲得は、自然環境に大きく左右されます。
 だから、それぞれの気候風上にあった食材を利用した料理が作られ、それぞれの社会の特徴をあらわすことにもなりました。
 農村では米麦類や野菜を使った料理、漁村では魚介類や海藻を使った料理、山村では雑穀類や獣肉、山菜を使った料理が伝えられています。
 そして、人間は交易をする動物ですので、たがいに異なる自然環境から生まれた他の社会の食材や料理を自分たちの社会へと取り入れていきます。
 それが多彩で複雑で興味深い食文化の歴史をかたちづくってきています。

 日本人は、四季がめぐるごとに句となる食材を食べながら、それを与えてくれる自然に感謝してきました。
 いまの私たちはどうでしょうか。
 手間ひまかけてゆっくり料理を作っている暇はありませんから、店で買ってくる惣菜が、現代人の食卓を満たしています。
 しかし、イタリアやフランスなど、世界の各地の生活文化に眼を向けてみれば、食事は楽しむものだ、という頑固な考え方を持ち続けている社会があることがわかります。
 小さくて東西南北に長い島国、日本にも、それぞれ地方ごとに豊かな食文化か伝えられています。

 これらの食文化を知ることによって、あらためて考えさせられるのは、食べることができるもの、つまり食材は、すべて生き物であるということです。
 水を除いて生き物が生きていくために食べるものは他の生き物以外にはないのです。
 人間も動物も同じです。
 生き物は、他の同じ生き物を殺して食べるしかない存在、という意昧なのです。
 それに気がついたとき、人間は、食事の前に感謝と祈りをささげることをはじめたようです。




(1)食の堕落と日本人

(2)箸が使えない日本人

(3)教育を通して
   「社会に生きる個人」 の意味、 「食」 の意味を教えること


(4)食育について

(5)生産者見失った消費社会

(6)産地偽装

(7)変な給食

(8)食料危機は 「想定外」 か

(9)意外と危険な日本の食事情


(90)[番外] 汚染米の転用

(91)[番外] 2030年 農山漁村から見える未来

(92)[番外] 歪んだ農業政策を軌道に戻せ

(98)[番外] 神と人が共に食す四季の味覚

(99)[番外の番外] 「バードカフェ 謹製おせち」 問題





~ 四季とともに ~

 日本には季節ごとに恒例の行事があります。
 正月、節分、雛祭り、端午の節句、盆 …… などいずれも長い伝統を持つものですが、どの行事もそれぞれ独特の食べものと結びついています。 なぜ、季節の行事と食べものが結びついたのでしょうか。
 日本では魚介類にしろ、野菜や果物にしろ、食材は季節と不可分でした。 食材ごとに水揚げされ、あるいは収穫されておいしく食べられる季節は決まっていました。
 「旬」 です。



魚の旬

 魚介類は産卵期の直前でもっとも脂がのっている時期、野菜や果物では収穫されはじめの時期が旬にあたります。
 ビニールハウス栽培やコールドチェーンの発達などによって食材の変化から感じるそれぞれの季節感が希薄になってしまう以前の日本では、旬によって誰もが季節の訪れや移り変わりを実感していたのです。
 代表的な食材の旬を見ていきましょう。
 春に旬を迎える魚はタイ、アマダイ、ニシン、カレイ、タラ、ブリ、サヨリ、白魚、キス、メバル、イイダコ、貝類はハマグリ、赤貝、鳥貝、サザエ …… とじつに多彩です。 命が芽吹く季節の面目躍如たるものがあります。
 季節が移って初夏になると、カツオが旬となります。 回遊魚であるカツオは黒潮に乗って太平洋沿岸を北上し、五月、六月には伊豆半島、房総半島、七月、八月には東北の金華山沖に達し、九月、十月には北海道の近くにやってきます。

 〈 目には青葉 山ほととぎす 初ガツオ 素堂 〉

 と詠まれた初ガツオは五月、六月に釣られて江戸に運ばれたものをいいます。
 秋の訪れがもたらす旬の魚はサバ、サンマ、サケなどです。
 それぞれに秋の字を冠した 「秋鯖」 「秋刀魚」 「秋味」 の言葉もよく知られるところです。


野菜の旬

 野菜も春が盛りだくさん。 セリ、ワラビ、ツクシ、ノビル、ヨモギ、フキ、ウド、菜の花、タケノコなどがこの季節に旬を迎えますが、なかでもタケノコは春の旬の食材としてさまざまな料理に使われます。
 漢字でタケノコは 「筍 」。
 まさに旬の野菜の代表格なのです。

 〈 夏も近づく八十八夜 野にも山にも若葉が茂り あれに見えるは茶摘みじやないか …… 〉

 八十八夜とは立春から数えて八十八日目のことですが、初夏の風が通るこの季節の旬は新茶です。
 香りも味もこの八十八夜に摘んだ茶が最高とされます。
 収穫の秋は旬の野菜も春にひけをとりません。
 マツタケ、ギンナン、レンコン、クリ、ナス、ダイコン、ミョウガ、サトイモ ……。 炊き込みご飯にしたり、土瓶蒸しにしたマツタケで秋を感じたいのはやまやまながら、高値とあってなかなか手が出ないのが実情ですが、秋を代表する旬の食材といえばこれを筆頭にあげないわけにはいきません。
 煮もの、揚げもの、焼きもの、漬けもの …… と食材として幅広く利用できるのがナス。 ナスは六月から十月ころまで収穫されますが、秋に収穫されるものは実がしまりえぐみも少なくなるため、この季節が旬といえます。

 〈 秋ナスは嫁に食わすな 〉

 とは誰もが知る言葉ですが、意味は二つに解邪されています。
 嫁姑戦争を背景に秋のナスほど旨いものを嫁になど食わせてたまるものかという、姑の意地悪を表現したとするのが一つ。 もう一つは、からだを冷やす秋ナスは大事な子宝を授かるためには妨げとなるから、嫁には遠慮してもらおうという、嫁のからだを気づかう姑の思いやりと解するものです。 いずれにしても、旬の食材は季節を象徴するものであり、その季節には旬の食材を使った料埋がつくられ、また、供されます。
 今年もまた自然の恵みのおかげで旬の食材が収穫できたことを神々に感謝するのです。
 それらの旬料理がやはり季節を象徴するセレモニーである行事と結びついたのは、ごく自然だったといってよいでしょう。






( 2009.11.23 )


 終戦直後、日本人は戦争に負けるとはどういうことかを嫌というほど知らされた。 GHQ( 連合国軍総司令部 )から新憲法を一方的に押しつけられたことはその最たるものだったが、 「祝日」 が全面改定されたこともそうだ。
 戦前の日本には、国の祝日と大祭日とからなる12の 「祝祭日」 があった。 そのほとんどは紀元節、天長節など皇室の祭祀を国民がともに祝う性質のものだった。
 しかし昭和20年12月、GHQはいわゆる 「神道指令」 で、そうした祭祀を皇室の 「私的な行事」 として祝日から排除した。 代わりに昭和23年7月に制定されたのが、9つの 「国民の祝日」 である。 このうち 「春分の日」 「文化の日」 など6つの祝日は、それまでの祝祭日とおなじ日で、名称や意義を変えたものだった。
 「国民主権」 の国家となったのだから一見、当たり前のように思える。 だがその結果、新しい祝日が何を、何のために祝うのか極めてわかりにくくなった。
 例えば明治天皇の誕生日だった明治節の11月3日がなぜ 「文化の日」 なのか、皇室の祖霊を祭る春季皇霊祭がなぜ 「自然をたたえ、生物をいつくしむ」 ( 国民の祝日此関する法律 ) 「春分の日」 となったのか、理解は難しい。
 今日、11月23日の 「勤労感謝の日」 もわかりづらい。 祝日法には 「勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」 日とある。 だが実際には、年に1回親の肩たたきをする日ぐらいにしか受け取られていないようだ。
 祝祭日の時代には 「新嘗祭」 の日であった。 23日の深夜から翌日未明にかけ、天皇陛下が天照大神をはじめとする神々に新しくとれた米や粟のご飯や酒などをお供えし、自らも召し上がりになる祭祀である。
 7世紀の大化の改新の時代から11月の 「下卯げのうの日」 、つまり2回目の卯の日に行うよう決まっていたが、改暦が行われた明治5年の 「下卯の日」 が23日だったことから、この日に固定された。
 収穫を感謝するだけではなく、天皇ご自身も神々と 「会食」 されることで、翌年の豊穣ほうじょうに向けて力を得る意味もあるという。 天皇陛下にとって、最も重要な祭祀とされてきたのだ。
 GHQがそうした祭祀と国民とを引き離そうとしたのは、日本の皇室に対する大いなる誤解からだった。 天皇の最大の仕事は一時期を除けば政治ではなかった。 日本古来の文化を体現、継承することだったという事実だ。
 今でも奥能登地方の 「アエノコト」 のように、神に新穀をささげ会食することで新たな力をいただく行事が日本中に残っているという。 「新嘗祭」 はそうした稲作にまつわる民間の伝承を取り入れたものだといっていい。
 天皇陛下が毎年 「お田植え」 や 「稲刈り」 をされるのも、そうした稲作文化を引き継いでいこうというご意志なのである。
 かつての日本人はその意味や素晴らしさを十分に理解していた。 だから、新しい祝日が制定される前、政府が行った 「どんな祝日がいいか」 という世論調査で 「新穀に感謝する日」 が約64%の支持を集めた。
 その稲作の危機が叫ばれて久しい。 日本の食料自給率は4割まで落ち込んだ。 立て直すには、稲作を中心に社会を築いてきた歴史をもう一度学ぶ必要がある。
 そのためにも、今日はやはり 「新嘗祭」 の日として祝いたい、と思っている。





 動物愛護とか言い出す連中ってのは、躾というか食育や親に問題があるケースが多いと考える。
 親が目の前で魚を捌いたり、場合によっては肉を買いたいしたり、一言でいうと 「グロ体験」 が欠如することで、大人になってからそういった場面に遭遇した瞬間に、一気に極端に走る傾向がある。
 なんでもそうだが、極端にはしっていいことは何一つないわけです。
 今、生きている以上、何かの命を貰って生きているわけで、それを 「かわいそう」 だの 「残酷」 だの抜かすなら 「自ら命を絶てばいい 」。
「生き物を殺さない」 というのなら、 「植物だって生きている」 わけで、論法としては完全に破綻する。
 100歩譲って 「動物を殺さない」 とすると、 「魚まではOK」 とか 「無精卵までOK」 というような 「カテゴリーわけ」 をする段階で、傲慢甚だしい。
 キリスト教圏にはこういった物言いをする人が多く、特に白人は顕著に見えますね。
 食卓に上がる肉は 「誰かが育てて 」、 「解体して」 やってきます。
 「いただきます」 は犠牲になった命と自分の変わりに手を汚してもらった人に言うものであって、 「金を払ったからいう必要はない」 とか、これも根本的に間違っていると考えるし、自身の付き合いの中にそんな人間がいたら、粛々と付き合いをやめるか、きっちり嗜めて自覚を促すようにしている。

 動物園や植物園にも全てに噛み付くなら一貫性があって納得できなくもないが、自分達が言い易い立場を選んで攻撃する姿勢が実に愚かしい。
 それも本心から行っているのと、仕事としてやっているのと存在する。
 何事にも筋を通してから誹謗中傷してもらいたいものである。

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